ブログにも似たようなことを書いてますが、目標を立てるのと立てないのと、どっちが良いかという話があります。
「目標は高い方が良いか?それとも...」
目標を明確にしないと、絶対に到達することはない。
世界No.1コーチのアンソニー・ロビンズ氏はそう言います。
一方で小林正観さんは、目標など持ってはいけないと言います。
他人から頼まれたことをやっていれば、自ずと自分を生かす最適な道へと導かれる。
だからその導きを信じて、目の前のことを一所懸命にやれば良いのだ、というわけです。
これは、どっちが良いかという問題ではなく、どっちが好みかという問題だと思います。
ただ、注意しておくことがあります。
それは、目標を立てる場合ですが、最終的には結果に執着しないことです。
「目標を絶対に達成すると思わなければ、目標を立てる意味がないじゃないの?」
それはそうなのですが、そう単純なことではないのです。
「引寄せの法則」などで言われるように、思考が現実を創造しています。
ですから、私たちが信じたことは現実になります。
そういう意味では、絶対に達成するという強い気持ちが、その結果を引き寄せると言えます。
たとえば、今の身体ではなく、八本足の宇宙人のような身体に自分を創り変えることも可能だと、バシャールは言っていますよね。
しかし、理屈ではそうなのですが、おそらくそうはならないだろう、とも言います。
なぜなら、私たちの魂は、今のこの身体になることで何らかの課題を達成しようとしているからです。
ですから、そういった基本的な制約に関する信念は、変えることを本心から望むはずがない、と言うのです。
と言うことは、私たちの意識が望んだことが、必ずしもすべて現実になるわけではない、とも言えるわけです。
厳密に言えば、私たちの意識が本心から望まないことは、現実化しない、ということですけどね。
自分は本心から望むと思ったとしても、本心ではないということがある。
ややこしくてすみませんが、そういうことだと思います。
ですから、目標を絶対に達成すると考えても、達成しないこともあり得るのです。
これはつまり、思い通りにならないことはある、ということになります。
「なんだ、それじゃあ引寄せの法則なんて意味ないじゃん。」
まあぶっちゃけ、そういうことですね。
でも、多くのケースでは、本気で思った(信じた)ことは現実になるでしょう。
ですから、目標を持つことが間違っているわけではないのです。
これまでにも書いてますが、思い通りにならないことなんてどんな優れた人にでもあります。
あの大西郷と呼ばれた西郷さんでも、最後は思い通りにならなくて西南戦争で散ることになりました。
まあそれまでの人生においても、思い通りにならないことだらけだったでしょう。
聖人君子と言われる孔子でさえ、一番期待していた弟子の顔回に先立たれ、「天、我を滅ぼせり!」と言って
慟哭(どうこく)したのです。
キリストと呼ばれるイエスも、十字架に掛けられる運命を知ったとき、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(我が神、我が神、何ゆえ我を見捨てたもうたか?)」と叫んだそうです。
そうなのです。
どんな立派な人でも、思い通りにならないことがある。
それがこの世の真実です。
だから、最終的に目標に執着するなと、私は言っているのです。
なぜなら、その目標を達成することが、必ずしも魂の思いに適うこととは限らないからです。
魂はそれとは別のことを体験させることで、課題を達成しようとするかもしれません。
したがって、現実をすべて受け入れ、「これでよい」と思った方が良いのです。
良寛さんは、こんなふうに言っています。
「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候。」
起きたことを否定しても意味がなく、受け入れることが大切なのです。
上手く行ったとき、目標を達成したときは、そのことを素直に喜びましょう。
逆に上手く行かなかったとき、目標を達成できなかったときは、その出来事に意味があるのだと受け入れ、それも良いことだと喜ぶのです。
そういう生き方ができるようになれば、思い通りにならないことに苦しむことがなくなります。
ですから、バカボンのパパになりましょう。(笑)
「これで、いいのだー!」
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