「アップデートする仏教」で話題になったという山下良道さんの本を読みました。
たしか新聞の広告欄を見ていて、何となく気になって買ったのです。
読み終えた今、「ビンゴ!」と喜びたい気分です。
この本にも、仏教のアップデートの話が出てきます。
WEB1.0がアップデート(正確にはバージョンアップ)してWEB2.0になりましたが、このようにバージョンアップすることを示すために仏教1.0→仏教2.0→仏教3.0という名前をつけているのです。
ちなみにWEB1.0→WEB1.1のように表現するときは、小さな改修であって、これはアップデートと呼ばれます。
広い意味では1.0→2.0もアップデートと言えますが、私の感覚ではバージョンアップと呼ぶ方が正確な気がします。
それはさておき、この本の中心的な部分は、要は私たちの本質は青空であり、それを覆う雲ではない、という話になります。
これはつまり、「神との対話」で言うところの「ひとつのもの」と同じだと思います。
私たちはそれぞれ別々の存在だと感じていますが、本当はそうじゃないということですね。
もちろん仏教(この場合は大乗仏教ですが)で言うところの空(くう)も、「ひとつのもの」を指し示していると思います。
ですから、私からすれば目新しい話ではないのですが、おそらく今の日本の仏教界では、そういうようには言っていないのかもしれませんね。
山下さんは、独自の瞑想メソッドによって、この青空である自分を体験できると言っています。
これはなかなか興味深いことです。機会があったら、ぜひ瞑想会に参加してみたいと思いました。
本では理論的なことが書かれているのですが、詳細は読んでいただくとして、私が気になった部分を引用しておきます。
「問題は自分の心なのです。心が苦しみの原因です。
(中略)
私は、客観的に存在する問題を無視しろと言っているのではありません。福島第一原発はなんとかしなくてはならない。だからこそ、我々が第一にすべきことは、自分自身の不安や心配から解放されることなのです。この順番を間違えては、絶対にいけない。まず我々が自分自身の不安や心配から解放された後にのみ、客観的な問題を解決できる。その逆ではないのです。」(p.22 - 23)
「悩みの本質は、このシンキング・マインドが止まらないことです。
たとえば心配というシンキング・マインドは、いろいろなことを心配して、心配が止まらない。
(中略)
ならば、その苦しみからの解放には、シンキングが止まればいい。たったこれだけの話なのです。
ところが、ここで危険な誤解が生じることがあります。
誰かへの憎しみによる苦しみは、その相手を攻撃しても消えはしません。そこで自分の存在そのものが苦しみの原因だと考えるようになって、自分の存在を消したいという衝動にかられることにもなる。そういう傾向の強い人が仏教に出会うと、非常に危険なのです。」(p.48 - 49)
「エゴを捨てるとは、シンキング・マインドの世界をただ出るだけのことなのです。そして「青空」の世界に入っていったとき、当然エゴは捨てられているし、エゴを捨てない限り「青空」の世界には入れない。
どうやってエゴを捨てるのかといったら、「青空」に入る工夫をしていくだけです。そうしないで、エゴのままでシンキングしている限り、対象との間に距離を持たざるを得ません。」(p.93)
「だからこそ、本当に自分の心を徹底的に観察してみる必要があります。たとえば誰かのことを恨んでいるとすると、当然、恨んでいる相手が苦しみの原因だと思うでしょう。しかし、どういうふうにその人を恨んでいるかをよく観察してみると、何回もその恨んでいる人を思い出しているはずです。その人から言われたあの嫌な出来事を何回も何回も思い出している。べつに思い出す必要はないのです。だけれど、思い出さずにいられない。映画の同じシーンを何回も何回も上映している。それが苦しい。そうなるのもまた、あいつのせいだと思うかもしれない。しかし、何回も何回も思い出しているのは、やっぱり自分の心です。
苦しみを解決したければ、思い出すのをやめればいい。たったそれだけのことなのです。
(中略)
でも、思い出すのをやめる方法はあります。あの嫌な場面を思い出すのをやめられたら、自由になれます。もう、その人は関係ないのです。思い出すのをやめるということは、完全に心の範囲内のことですから、自分の心だけで決定できることです。」(p.140 - 141)
「シンキング・マインドを手放したとき、「俺」と瞑想対象とが二つに分かれていないということが実際に起こります。主体と客体とが一つだという体験ができるのです。」(p.144)
「では、そのことをどうやって本当に納得できるかといえば、「気づく」ということの本質を理解することによってです。気づくとは、考えることが終わった世界です。
気づくとは、一生懸命に「気づくぞ!」というものではありません。そんなことはできないのです。気づくとは、考えが落ちるということなのです。」(p.147)
「我々は映画に入り込まず、そこから覚め続けることができます。それがマインドフルということの本質です。」(p.150)
「こうして「誰が瞑想するのか」という主体が転換します。「私とは誰」というところが根本的に変わるのです。これが大切な体験なのです。
青空に触れたなら、すべてが変わります。なぜなら「私とは誰」ということが変わるからです。「私とは誰」ということが変わってしまったら、ゲームが変わります。修行の意味がまったく変わるということです。修行の方向性が、目的が、変わる。「私とは誰」という根本が変われば、「俺が修行して◯◯になる」などということが意味を持たなくなるからです。」(p.159)
「本当に青空に触れた人間は、自分たちのセクトを守るために他のセクトを攻撃したり、罵詈雑言を浴びせたり、戦ったりするなど、ありえません。宗教戦争は、そこからは出てこない。この何千年もの間、なぜ宗教戦争が起こってきたかというと、真理に触れていなかったからです。」(p.166)
「だから、この世界に執着することも、この世界を否定したものに執着することも、両方とも間違いなのです。欲望の対象としての世界も、それをすべて否定したニヒリズムも間違いです。本当の意味での自由は、その二つから自由になることなのです。」(p.180)
「世間で言われる幸せは、せいぜい白い雲にすぎません。
(中略)
しかし仏教では、真っ白な雲を求めているわけではないのです。白い雲でも黒い雲でもない、青空を求めているのです。
瞑想メソッドを使い、呼吸を観たり身体の感覚を観たりすることで、そういう雲をすべて手放し、青空のなかに入っていくことができます。これは理論ではなく、実際のことです。青空に入ったとき、立つ場所が違っています。今までは雲のなかに立っていたのが、その雲が手放されたときには、青空に立っている。青空に立ったときにのみ、すべての雲に対する非常に強い慈悲の力を感じるのです。」(p.183)
「私は雲じゃないから。
たったそれだけです。そこが急所です。私は青空です。」(p.184)
「我々は被害者であり続ける必要はないと言っているのです。我々は被害を受けたかもしれない。だけれども、一生被害者である必要はないということです。」(p.185)
思いついたままに引用しました。これで全容がわかるかどうか何とも言えませんが、言わんとするところが垣間見えてくるのではないかと思っています。
ぜひ、じっくり読んでいただきたいと思います。

【本の紹介の最新記事】