また、ひろさちやさんの本を紹介します。
島田裕巳さんの「0(ゼロ)葬 −−あっさり死ぬ」を購入した時、ひろさちやさんのこの本も気になって、合わせて購入しました。
ひょっとしたら同じようなことを言っているのかと思ったら、微妙に違ってましたね。
ひろさちやさんは、そもそも死んだ時のことなんか考えるな、という主張のようです。
葬式をどうするとか、墓をどうするとか、財産分与だとか、そんなもろもろのことを気にせず、残った人の好きにやらせたら良いと言うのです。
「人生の問題、人間の問題に正解はない。そのことをまず、「あきらめる」ことです。
ここでいう「あきらめる」は、諦める、つまり、ギブアップすることとはちがいます。
「明らめる」、明らかにするということです。
何ひとつ正解などないことが、自分のなかで明らかになれば、何をしようが、うまくいくときはいくし、うまくいかないときはいかない、ということがわかるはずです。」(p.32-33)
だからどれが最善かと迷うのも意味がないし、これが最善だと押し付けることも意味がないのです。
終活とは、要はその迷って決めて押し付けることになるのですから、やめなさいというわけです。
「たとえば、飛行機事故に遭って死ぬことにでもなったら、航空会社が葬式いっさいを取り仕切ることになるかもしれませんし、外国旅行中に死亡ということであれば、現地で荼毘に付されることだってあるわけです。
自分が思い描いたとおりの葬式がおこなわれるのだ、と考えること自体がまちがっているのです。そのことに思いが至れば、葬式の詳細について言い残すことの無意味さがわかるのではないでしょうか。」(p.39)
「さて、日本で現在おこなわれている、火葬して墓に埋葬するという遺骨の扱い方もひとつの風習、はっきりいってしまえば、「単なる風習」です。それが理にかなっているとか、仏教の教えに沿っているとか、ということとは関係なく、単なる風習として定着しているにすぎません。」(p.80)
「位牌は仏壇に安置され、毎日、水や花、ごはんなどが供えられ、家族はその前で手を合わせます。いかにも仏教の祀(まつ)りのような印象ですが、位牌も仏壇も儒教の影響が色濃いものなのです。」(p.110)
このように、自分の葬式をどうするか決めておいたって、そうなるとは限りませんし、それに今の葬式は、仏教とは関係のない単なる風習に過ぎないと言います。(そもそも仏教は葬式とは無縁でしたから。)
風習なら、何の根拠もないわけですから、時代とともに変わるもの。そして実際に変わっているものなのです。
「私たちが死者に対してすべきもっとも大事なことは、「忘れてあげる」ことです。」(p.131)
「残された人が死者を思えば思うほど、その不憫さを嘆けば嘆くほど、それは死者の苦しみを増す因(もと)となる。なぜなら、自分の死によって残された人を嘆かせることは、死者自身の罪だ、と仏教では考えるからです。」(p.143)
「繰り返しになりますが、遺族に「早く忘れよ」と言い残すことこそ、真の「遺言」と呼ぶに足るおこないです。」(p.137)
死ぬ方も未練を残さないように生き切る。そして見送る方もさっさと手放してあげる。執着しないこと、自由にさせることが、死という出来事に対しても重要だと言います。それが愛ですからね。
孤独死に対しても、後片付けは行政に任せればよいと言い放ちます。それだけの税金を払っているのだからと。
「お浄土に行くのだ。そのことだけをしっかり腹に据えておいてください。そして、孤立死など怖れず、「あとのことなどオレは知らん」と開き直って、堂々と死んでいけばいいのです。」(p.195)
このように思えれば、もう何も怖いものはありませんよね。
後のことは後の人に任せて、死ぬときは堂々と死にましょう。そう言われると、なんだかスッキリした気分になります。

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