久しぶりに、ひろさちやさんの本を読んでみました。
仏教的な考え方をわかりやすく説いておられるので、20代の頃から私は、ひろさちやさんの本を読んでいました。
この本は、2002年から約10年間、東京新聞・中日新聞に連載された「ほどほど人生論」をまとめたものだそうです。
10年という長い期間での連載ですから、話の内容に重複や矛盾もあるそうですが、そのときどきに考えたことを大事にして、なるべく加筆・修正しないようにされたとか。
この本では執筆順ではなく、テーマでまとめてあるそうです。
読んで気になった部分を引用してみましょう。
「「自由」というのは、物事の判断を「自分に由る」ことであって、それが主体性です。わたしはこれを食べます。わたしはこのような生き方をしますと、自分で決めるのです。」(p.28)
「自由」=「自」分に「由(よ)」る、という解釈はぴったりですね。他人に同調したり強制するのは、「自由」ではなく「他人由」だとか「世間由」だと、面白いことを言われます。
最近はKY(空気を読め)だとか言って、他人に自分の価値観を察することまで強要する風潮があるようですが、これなどは自由とは真逆の概念だと言えるでしょう。
「だとすれば、うぬぼれるということは、自分が自分自身に下した評価(それを主観的評価と呼ぶことができそうです)が、客観的評価(世間の評価)を上回っていることです。そして、うぬぼれてはいけないということは、主観的評価を客観的評価に近づけよ、といった意味になりそうです。
これは、ちょっと変ですよね。なぜなら、ここには、世間の人が下す評価が正しいといった前提が含まれているからです。」(p.30)
これも、指摘されてみるとなるほどです。
世間の評価がいかに正しくないかは、もてはやした有名人や政治家が、たちまち馬脚を露(あら)わす例でも明らかだと言います。
だったら世間の評価、学校の評価、上司の評価など気にせず、自分を信頼すれば良いのです。
そこで親は我が子を信頼すること、また自分自身を信頼すること、つまりうぬぼれることを勧めています。
「考えてみれば、阿修羅は正義の神ですが、正義というものはただ一つではないのです。帝釈天の立場に立てば、彼にだって言い分はあります。正義というものは複数形です。それぞれの正義があります。仏教はそのように考えているのです。」(p.123)
インド神話にある話で、正義の神アスラ(阿修羅)が力の神インドラ(帝釈天)に執拗に戦いを挑むという物語です。
そして仏教では帝釈天を仏法の守護神とし、阿修羅を魔類にしているのだそうです。
娘を奪われたから阿修羅は怒り狂って戦ったのですが、その怒りに執着しているために、複数の正義があるということが見えなくなったのでしょう。
人それぞれ自由であり、それぞれの価値観があります。それを受け入れることが、仏教として重要なことなのでしょうね。
「つまり、怒ってはならないと主張する人は、無意識のうちに、
−−正しい怒りとまちがった怒り−−
を区別しているのです。その上で、まちがった怒りをしてはならないと主張しているのです。
じつは、そこに道徳のいかがわしさがあります。」(p.195)
その正しい怒りとまちがった怒りを判断する基準は何かというと、力関係にあると言います。
たとえばアメリカによる原爆投下は非戦闘民を無差別に殺戮した行為ですが、アメリカはこれをテロとは呼びません。
一方で、911事件で行われた飛行機によるビル突入は、テロ行為と呼んでいます。
何がどう違うかというと、力のある側が自分たちが都合のよいように判断しているだけだと言うのです。
これも、まさにそういうことだと思います。
「わたしたちはみんな、神の目で見れば不完全な人間です。欠点だらけの人間なんです。それなのにわれわれは、他人に対しては「かくあるべし」と完全な人間であることを要求してしまうのです。それはおかしいのです。われわれは他人に対して、
−−あなたがあなたであっていい−−
と認めてあげること。それが真の愛だと思います。」(p.61)
ひろさちやさんは仏教に基づいて解説されていますが、この考え方は、まさにこの幸せ実践塾で説いているものと符合します。
幸せ実践塾は、必ずしも仏教の教えを説いているわけではないのですが、やはり真実は一致するのでしょうか。
読んでいて、何度も「我が意を得たり」と膝を打ちたくなりました。

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