「葬式は、要らない」という本で話題になった島田裕巳さんの最新作です。
「葬式は、要らない」も一緒に買って先に読んだのですが、あとで「0葬」を読むと、その内容がほとんど書かれていました。
ですから、これから読んでみようと思われる方は、「0葬」だけ読まれても充分かもしれませんね。
と言うことで、このブログでは「0葬」のみ紹介しておきます。
日本人の葬式にかける平均額は、驚きの231万円なのだそうです。これはダントツで世界一だとか。
もちろん香典などがあれば、遺族がすべてを負担するわけではありません。
何がそんなに高いかと言うと、豪華な祭壇を作ったり、読経してもらう僧侶へのお布施や戒名料としてお布施などだとか。
また葬式が終わっても、墓という問題があります。
都会では墓を持つこともままなりません。さらに作ったら作ったで、それを維持する費用もかかります。
どうしてこんなに、死ぬことに対して費用がかかってしまうのか?そして、それは必然なのか?
それに対する答が、この本には書かれています。
そして導かれた結論が、「0葬」ということになります。
これは、戒名も求めず、読経もしてもらわず、会葬者も呼ばない直葬と、火葬後の骨を引き取らないことで墓も作らないというもの。
その考え方が、けして突飛なものではなく、これまで常識と思われていたことが、ごく最近の風習であることを本書は丁寧に説明しています。
気になったところを一部引用しましょう。
「自己決定権がことさら主張されるのも、世間体を重視する考え方が日本では支配的だからだ。自分では自分のことを決められない。そこに忸怩(じくじ)たる思いを感じる人間が、自己決定権の尊重を訴えようとする。」(p.127)
葬式に限らず、日本人はすぐに相場を気にします。それは世間体が気になるからです。
その世間体を気にする気持ちが、無用な戒名に高い金額を支払うことを余儀なくしていると言うのです。
「なんのために葬儀を営み、墓を建てるのか、それが現在では不明確になりつつある。
人が死ねば、その遺体を処理しなければならない。それは避けられない。
だが、多くの人を集めて、故人の死を悼むべきなのか。その必要性は急速に薄れている。」(p.158)
無縁化する社会において、80歳を超える長寿ともなれば、すでに知り合いも少なくなっています。
故人を知らない人まで集めて葬儀を営むことの必要性を、感じない人が増えていることを指摘しています。
つまり社会との縁が徐々に切れていくことで、私たちは社会的に死を迎えるのであり、肉体の死はその先にある終着点に過ぎないと言うのです。
「ただ、私は、自然葬のさらに先があるように思っている。それが「0(ゼロ)葬」である。0(ゼロ)葬は、今求められている究極の葬り方かもしれない。」(p.177)
土葬だった時代は、土に埋めておしまいだったのです。棺桶や肉体が朽ちた後は土が陥没するため、埋めた場所の上に墓石は建てられなかったからです。
ただ裕福な家では詣り墓という、供養塔を別の場所に建てたそうです。
ならば火葬であっても、骨は自然に戻して、墓に納めなくても良いのではないかと言います。散骨などの自然葬です。
また、西日本では一般的に、すべての遺骨を骨壷に納めることはしないと指摘します。
東日本ではすべてを納めると書かれていますが、遺灰は納められませんし、崩れて落ちてしまった骨も同様でしょう。
と言うことは、すでに骨の一部は火葬場に残しているのが現実ですから、それをすべての骨に適用しても良いのではないか、と言うのが「0葬」です。
「遺骨を引き取らないなどということを聞けば、それに抵抗を持つ人もいるだろう。それだと、故人を粗末に扱っていることになるのではないかと言い出す人もいるはずだ。
しかし、火葬された骨が最終的になんらかの形で供養されるのであれば、問題はない。少なくとも、先に述べた本山納骨と変わらないし、永代供養墓に合祀するのと同じである。」(p.180)
「だからこそ、『千の風になって』という歌が流行ると、それを葬儀や納骨のときに歌う人が増えたのだ。この歌の歌詞は「故人が『私はお墓に眠ってなんかはいない』と訴える」というのが趣旨である。この歌が2007年年間売り上げ約113万枚の大ヒットという形で支持されたように、皆、墓に故人がいるとは考えていない。千の風になって、もっと自由になった、あるいはなりたいと考えているのだ。」(p.183)
私自身も、遺骨にその人の霊が宿るなどとは信じていません。ですから島田さんのこの指摘には、完全に同意します。
しかし、多くの人が「あれとこれは別だ」と考えているようにも思います。
多くの人は、自分が矛盾を抱えていることを何とも思わないのです。
そしてそれを、「だからこそ人間なのだ。人間は理屈じゃなく感情の生き物だから。」と、それこそ理屈にもならない屁理屈で正当化します。
つまり、自分自身の矛盾を指摘されると痛いため、その痛さに直面することを避けようとして、屁理屈をこねているのです。
ですから、そういう人には島田さんの考え方は受け入れられないと思います。
ただ、受け入れられない人が無理に、この考え方を受け入れる必要もないと思います。
人はそれぞれ自由ですから、自分が信じたいものを信じる。それで良いのではないでしょうか。
いずれにせよこの本は、これまでの常識がそうでもないと気づかせてくれるし、すでにそういう潮流が起こりつつあることを示していると思います。
いつかはやってくるこの世の人生の終着点を考える上で、参考にされてみてはいかがでしょうか。
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