2014年03月28日

佐藤一斎「言志四録」を読む



神渡良平さんが書かれた言志四録(げんししろく)に関する本を読みました。

言志四録とは、江戸時代の儒学者で徳川幕府唯一の大学である昌平坂学問所(昌平黌(しょうへいこう))を統括した佐藤一斎の著書、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋(てつ)録」の4冊を指します。

この本は絶版になった「いかに人物たり得るか−−佐藤一斎「言志四録」をどう読むか」(三笠書房)をもとに、大幅に書き直して改題し、致知出版社から出版されたものです。



ひょっとしたら前作が出版された1993年当時、私はこの本を読んだかもしれません。

あのころは中国古典に関する本を読みあさっていましたし、神渡さんの本も何冊か読みましたから。


言志四録の中には、有名な言葉がたくさんあります。その中で私は、以下の言葉を座右の銘としていました。

当今(とうこん)の毀誉(きよ)は懼(おそ)るるに足らず。後世の毀誉は懼るべし。一身の得喪(とくそう)は慮(おもんばか)るに足らず。子孫の得喪は慮るべし。」(言志録89条)

だいたい意味はわかると思います。つまり、自分がどう評価されるとか、今の損得がどうかなどにこだわらず、もっと大きな目で見て、後世の人がどう評価するかとか、後々の人の損得を考えて行動せよ、ということです。

なかなかこのように生きられない弱さを持っていると思っていましたが、それでもこれを意識することで、私もそれなりに道を切り開いてこれたのだなあと思います。


前半は、佐藤一斎に直接師事したわけではありませんが、「手抄言志録」として自ら言志四録をまとめたものを作った西郷隆盛の話が書かれています。

西郷隆盛と言えば、「西郷隆盛 人間学」という本も、神渡さんは書かれています。

これを読んだ時も、西郷の生き方に感動して泣きましたが、今回もやはり泣いてしまいました。

読みながらも、思わず居住まいを正してしまいます。背筋が自然と伸びるのです。

苦難の中にあっても、自分自身をあきらめなかった西郷。その強さは、一斎の言志四録から学んだことかもしれません。

天下のこと、もと順逆なく、わが心に順逆あり。」(言志耋録133条)

出来事はニュートラルだと言いますが、一斎も同様に考えていたのです。

他人に逆境と見えても、自分には順境と見える。ところが自分の心がすさんでいれば、人には順境と見えることすらも、自分は逆境と受け止めてしまう。結局は自分の心なのである。
 一斎の静かではあるが力がこもった言葉、「いかなる立場にあろうとも、生死のことは天に任せて、自分はただ敬の一字をもって貫くだけである」が、獄中の西郷にはただただうれしかったに違いない。
」(p.46)


また、「今、ここ」に生きよということも、スピリチュアルな世界ではよく言われますが、これも同様のことを一斎は言っています。

心は現在なるを要す。事未(いま)だ来たらざるに、邀(むか)うべからず。事すでに往(ゆ)けば、追うべからず。わずかに追い、わずかに邀うれば、則(すなわ)ちこれ放心なり。」(言志晩録175条)

われわれはいつでも心を現在のことに集中しておかなければならない。事がまだ起こっていないのに、いたずらに取り越し苦労をしてはいけない。また過ぎ去ったことを追いかけてはいけない。わずかでも過去を追ったり、まだ来ない将来のことを案じることは、ともに自己の本心を失っていることである」(p.90)


人心(じんしん)の霊なるは太陽の如(ごと)くしかり。ただ克伐怨欲(こくばつえんよく)、雲霧の如く四塞(しそく)すれば、この霊いずくにかある。ゆえに、誠意の工夫は、雲霧を掃(はら)いて白日(はくじつ)を仰ぐより先(せん)なるはなし。およそ学をなすの要は、これよりして基(もとい)を起こす。ゆえに曰く「誠は物の終始なり」と。」(言志耋録66条,南洲手抄言志録90条)

孔子は門人の原憲(げんけん)の問いに答えて、克・伐・怨・欲を克服することが人に至る道だと説いたが、きわめて難しい問題でもあることも率直に認めている。あらためて、克(人に勝ちたがること)、伐(自慢したがること)、怨(怒り恨むこと)、欲(むさぼり欲しがること)の四悪徳を日々克服していけるよう自覚したい。」(p.137)

これなども、まさにスピリチュアル系でよく言われることです。

人はもともと完全な素晴らしい存在なのです。そうであることを忘れているために、そういう素晴らしい存在らしからぬことができる。

そこで課題となるのが上記の4つの悪徳になるわけですが、「人に勝ちたがる」や「自慢したがる」というのは、他人の評価を得たいと考えです。

つまり愛が足りないと感じているから、それを得たいと思っているのです。

また「怒り恨むこと」や「むさぼり欲しがること」というのも、愛が足りなくて得られないのではないかという不安、怖れから生じています。

究極的にはこの4つの悪徳も、「愛が足りない」という思いに集約され、それを克服することが重要だというわけです。


諺(ことわざ)にいう、禍(わざわい)は下(しも)より起こると。余(よ)謂(い)う、これ国を亡ぼすの言なり。人主(じんしゅ)をして誤りてこれを信ぜしむべからずと。およそ禍はみな上(かみ)よりして起こる。その下より出ずるものといえども、しかもまた必ず致すところあり。成湯之誥(せいとうのこう)にいわく、爾(なんじ)、万方(まんぽう)の罪あるは予(よ)一人にありと。人主たる者は、まさにこの言を監(かんが)みるべし。」(言志録102条)

諺に災いは下より起こるとあるが、これは亡国の諺であって君主にこれを信じさせてはいけないと思う。すべて災いは上より起こるものである。下から出た災いでも、必ず上に立つ者がそういうふうにさせているものだ。殷(いん)の湯王(とうおう)が家来に諭し告げて言った。
「汝ら四方の国々の人民に罪悪があるのは、すべて自分一人の責任である」
君主はまさにこの言を手本とすべきである
」(p.217)

これは君主の心構えを語っているようにも思えますが、君主でなくても、1人の人間としての生き方を言っているように思います。

つまり、自分の人生において起こることは、すべて自分の責任だと受け止める生き方です。

長らく日本化薬の会長を務め、財界の不倒翁と呼ばれた原安三郎氏は、学生の頃から人物と思われる人々を訪ねていたのだそうです。

そして、それによって感じたことを、次のように言ったそうです。

こうして訪問で得たものは大きかった。特に多くの人が『他人に責任転嫁しない』という生き方をされているのには感じ入りました。人の度量というものはそこから育つものです」(p.218)


このように、スピリチュアル系の本で言っていることと、中国古典から続く考え方として言われていることが、大部分で符合することが言えると思いました。

ただ、こういう中国古典の言葉は格調が高く、読んでいると自然と背筋が伸びてしまうのが不思議です。

改めて、論語や孟子なども読み直してみたくなりました。

佐藤一斎「言志四録」を読む
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 20:56 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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