森さんは若いころ、脊髄小脳変性症という難病を患い、余命5〜10年ほどとわかりました。
それで、その病気を治すために、甲田光雄院長の断食&少食療法を行うことになったのです。
その療法を行う中で、自分の身体に合った食事を模索するうちに、1日青汁1杯という仙人食に至ったというわけです。
わずか100Kcalほどの食事で、健康な身体を13年も維持されています。
その森さんが、病気についてこう言われています。
「病気になる前の私は、元気なのが当然だと思っていました。自分に与えられたものに、何ひとつ感謝していませんでした。何もかもが普通で当たり前でした。
考えてみたら、当たり前ということはありません。手や足や目や口や体の全部が、きちんと働いてくれるのは、本当にすごいことです。どこか不自由なところがあっても、ほかのところがきちんと働くのはすごいことです。
そのことに、病気をして初めて気がつきました。前は、気がつかないにもほどがあるほど、気がついていませんでした。」(p.168 - 169)
つまり病気になって初めて、身体のどの部分も正常に機能することが当たり前ではない、と気づいたのです。
当たり前でないということは、裏返せば奇跡だということです。
奇跡とは有り難いこと。
だから、感謝したくなるのですね。
病気が回復して働く意欲が出てきたころ、森さんは鍼灸師にならないかと誘われます。
これもまた運命ですね。
こうして森さんは鍼灸師になられたのですが、ここでもまた大きな気づきがありました。
「ツボは、すべての人が生まれもっているものです。そのことを考えると、もともと「人間は病気をするもの、人は失敗するもの」と想定されているのだろうという気がします。そのために「ツボ」という、病気をしたときに治す場所をもって生まれてくるのではないかと思うのです。
ツボは、人が自らをメンテナンスするための、神様からの贈りものかもしれません。」(p.146)
病気になることが想定されているのが人間だということです。
そして、その病気を治せるように創られているのだと。
つまり病気になることも、病気が治ることも、導かれていることなのです。
病気になって何かを学び、そのステージが終わったなら、病気はまた治るのです。
では、病気とは私たちに何を教えてくれるものなのでしょうか?
それは先ほどの森さんの気づきの中に示されています。
つまり、当たり前なことが当たり前ではない、ということです。
ただいるだけで有り難い。
つまり私たちは、何がなくても、有り難いことだらけの中に生きている、ということです。
幸せになるなと言われても、そんなことは不可能だと感じられるほど、有り難くて有り難くてたまらない。
それが、今の私たちなのです。
そして病気は、その本人だけでなく、周りの人にも様々な影響を与えます。
それが周りの人にとっては、贈り物ともなるのです。
森さんが養護学校の臨時教員として働いていた時、障害を持つ子の中に、とりわけきれいな光に包まれている子がいたのだそうです。
そのときの気づきを、森さんはこんなふうに言っています。
「自分の目がおかしいのだろうと思いつつも、そのきれいさに感動していると、頭の中に「菩薩行(ぼさつぎょう)」という言葉が、声なのかインスピレーションなのかわかりませんが、突然に響きました。その声(インスピレーション)は、「この子はこの子の周りの人のために、身をやつして障害をもって生まれてきて、周りの人を成長させているんだよ」と続きました。」(p.102)
障害も病気も、似たような影響を周りに与えます。
だとしたら、病気になったのはその人が悪いからではなく、周りの人に何らかの贈り物をするため、とも言えますよね。
だから、罪悪感も被害者意識も、持つ必要性がないのです。
その出来事がどういう意味を持つかは、その人がどういう意味を与えるかにかかっているのです。
病気になった人は、何の遠慮もなく、堂々と病気治療に専念すれば良いのです。
そしてその病人を介護する立場の人は、自分がそういう立場になったこと、つまり導かれたことの意味を考えればよいのです。
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