誰にでも、運命的な出会いと思えるものがあります。
これは私の、運命的な出会いのひとつです。
あれは、2006年9月21日のことでした。
貧しい子どもたちの支援をしているボランティア団体の会報誌に、気になる記事が載っていたのです。
大きな白黒の写真には、小さなミシンを目の前に置いた痩せ細った少女の姿が写っていました。
少女は、ただひたすらに縫い物をしているようで、その横顔から表情を伺うことはできません。
かろうじて、部屋の向こう側にある鏡に少女の顔が写っていますが、これもピンボケのため、どんな顔なのかもわかりません。
わかるのは、ただおそろしく痩せこけているということ。
記事には、いわゆるクロントイのスラムに暮らすチンタナー・コンマンさん23歳とありました。
世界的にも珍しい心肺同時移植手術を13歳で受けたものの、余命3年と診断され、高価な免疫抑制剤を飲みながら、激しい副作用とたたかっているのだと。
治療費は国などが出してくれているようですが、彼女は自分が勉強するノート代くらいは自分で稼ぎたいと、アルバイトをしているのだそうです。
両親の経済的な負担を減らしたいという思いもあったでしょう。
体調が悪くて苦しい時でも、彼女は弱音をはかない。いつも明るく、笑顔を絶やさない少女なのだとか。
最後に、支援のお願いがありました。
政府の支援はあっても、高価な薬代や入退院の費用を、両親だけでは捻出できないのだそうです。
私は、すぐにメールを出しました。「わずかですが、チンタナー基金へ募金したいと思っています。」と書いて。
9月26日、会から返事が届きました。
彼女はスコータイ大学の4年生で、もうすぐ卒業なのだそうです。
会からは、毎月2千バーツ(約6,400円)を支援しているとのこと。
私はさっそく、1万バーツを振り込みました。
10月6日、チンタナーさん本人が書いたお礼の手紙と、手作りの携帯電話入れが届きました。
彼女はこういうものを作って売って、わずかな稼ぎを得ているのでしょう。
手紙は、こういう書きだしから始まっていました。
「こんにちは、ご支援者様。
私はチンタナー・コンマンです。貴方が慈愛を持って私を支援してくださったことを知り、とても嬉しくて感激しています。」
そして彼女が、これまでどういう生活を送ってきたかが書かれていました。
そして、こんなことが書かれていました。
「私は、学んできたことを直接活かして仕事に就くことができません。ですが、学んできたことは確かに私の身についているし、私にできる仕事に活かす事ができるはずだし、一生、使っていけるものだと信じています。
私に慈愛と真心を与えてくださいまして、どうもありがとうございます。貴方のご支援は私にとって特別な価値があるものです。貴方から励ましを頂き、毎日を良く生きていくためがんばる力が湧いてきます。」
2007年1月17日に私は、久しぶりにチンタナーさんの様子を尋ねるメールを会へ送りました。
1月19日、突然、会の担当者の方から私の携帯電話へ連絡がありました。
チンタナーさんは危篤状態で、ICU(集中治療室)に入っていると言うのです。
これが最後かもしれないので、来て、会ってくれませんか、というものでした。
しばらく考えさせてもらい、私は返事のメールを出しました。
「突然のことで、頭が混乱しました。一瞬、これが最後のチャンスなのかもしれないと思い、会いに行ってあげればどれだけ喜ぶだろうかとも思いました。
しかし、やはり会わないでおこうと思いました。それほど強い理由があるわけではありませんが、会えば特別な人になってしまうことを恐れているのです。
支援者は、いずれ忘れ去られるのが良いのだと、私は思っています。ですから重荷にならないように、いつまでも心の中の足長おじさんであればよいと。」
その日の夜、担当者からメールがありました。
彼女はすでに3日間も意識が戻らず、その日のうちにICUを出されてしまったのだそうです。
つまり、医者ももうあきらめて、あとは死を待つばかりとなったのです。
その連絡を受けて、私もメールを書きました。
「「1000の風」という話題になった詩を思い出しました。彼女はきっと、思う存分に生きたのでしょう。もう十分と言って、去っていくのだと思います。
しかし、彼女はいなくなってしまうのではなく、1000の風になって、私たちの周りに居続けるのだと思います。
この人生の中で、彼女の人生の一端に触れることができたのは、私にとっても貴重な体験でした。心からありがとうと言いたい気持ちです。おそらく、彼女を支えてこられた全ての人が、同じ気持ちなのでしょう。」
1月23日、私は会社の幹部ミーティングで、彼女のことについて話しました。
どんな境遇であってもそれを受け入れ、明るく真っ直ぐに生きたタイ人女性がいることを、スタッフに知ってもらいたかったのです。
その日の午後、会の担当者からメールが届きました。
チンタナーさんは、その日の未明に、亡くなられたのだそうです。
私は、その知らせを受けて、メールを書きました。
「ご連絡いただき、ありがとうございました。チンタナーさんは、不自由になった肉体を捨て去って、1000の風になって卒業式に参列されるのかもしれませんね。
チンタナーさんには、勇気とか、生きる力とか、そういったものをたくさんもらったような気がします。どっちが支援者かわからないですね。
今日ちょうど、チンタナーさんのことを、当社の幹部クラスのミーティングの場で話をしたところだったのです。どんな環境に生まれても、精一杯生きることができる。自分らしく精一杯生きることを、スタッフに対して話したのです。
チンタナーさんには、心からありがとうと言いたいです。また、この出会いを作ってくださった皆様方にも、心から感謝しております。」
わずか4ヶ月ほどの関係でした。
いえ、関係と呼べるほどのものだったのかどうか。
私とチンタナーさんは、一度も顔を合わせていないし、手紙も1回受け取っただけです。
それなのに、今でも忘れることができないほど、彼女のことが私の心に残っています。
彼女のことを思い出せば、すぐにも涙が溢れてきます。
それは可愛そうだという同情の涙ではなく、出会えたことへの感動なのだと思うのです。
あの痩せ細った体で、薬の副作用など、どれほど苦しかったでしょう。
同世代の友達と同じように生きられないことに、どれほどもどかしく感じたことでしょう。
けれども彼女は、自分自身の境遇を受け入れ、前向きに明るき生きたのです。
大学で学んでもそれを活かせる仕事に就けないこともわかりながら、それでも一所懸命に学んだのです。
できればせめて、あと数ヶ月後の卒業式まで生きさせてあげたかった。
タイ人にとっては、一世一代の晴れ姿である大学の卒業式。
王室関係者から直接、卒業証書を手渡しされるという栄誉。
でも、彼女は待たなかったのです。
もう充分だと思ったのでしょう。
彼女は私に、本当に素晴らしい贈り物を残してくれました。
もし私に忍耐とか勇気があるとすれば、それは彼女がくれたものです。
すぐにへこたれそうになる私を、彼女は叱ることも励ますこともなく、ただにこやかに見守っていてくれる気がします。
「そうか、見ていてくれるんだね。じゃあ、もうちょっと頑張るかな。こんなことでへこたれてたら、あの世であなたに会わせる顔がないから。」
彼女は、かわいそうな少女ではありません。
私にとっては、私のためにこの世にやってきてくれた天使なのです。
だから私も、彼女のように生きようと思うのです。
チンタナーさん、あなたのことが大好きです。
※この記事の内容は、以前に書いた記事「あなたが示してくれた前向きな心を忘れない」と同じものです。
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