寺社巡りの旅だったのですが、なぜかそこではおみくじを引こうという気になったのです。
金色に輝く観音様の声でも聞こえたのでしょうかね。

なにやら漢文で書かれているのでよく読まず、目についた「半吉」だけを確認して、「まあ、こんなものか」と思っていました。
だいたいはそこで木の枝などにくくりつけて帰るのですが、そのときは「またあとで読もう」と思って持ち帰りました。
それを先日やっと読んでみたのですが、けっこう良いことが書かれていましたよ。
漢詩を次のように要約してありました。
「暗い雲が盛んに湧き、先に行けそうにない
光を求めても又未だ巡り会えない
(ところが)思いもかけぬ様子で一変する
一矢で二羽の鳥を射落とす程の幸福に見舞われよう」
どうです?これって半吉じゃなく、大吉みたいじゃありませんか。
現状はうまく行っていないように見えても、思いがけないことで状況が変わり、今度は想像以上の幸運に恵まれると言うのです。
まさに夜明け、春の到来、そんな感じです。
読み終えたら捨てるつもりでしたが、しばらく財布に入れておきます。(*^_^*)
私は、占いというものはあまり信じません。
昔は星占いとか、バイオリズムなど、いろいろ凝ってましたけど。
でも、この世の道理がわかってくると、そういうものに左右されることが、そもそも間違っているのだとわかったのです。
特に良くないのは、「不吉なことが起こる」という予言ですね。
まあ私も以前は、ノストラダムスの大予言を信じた口ですから、他人のことは言えませんけどね。
でも、恐怖心を煽って他人をコントロールするというやり方は好きじゃないし、やってほしくないなあと思うのです。
小林正観さんも、こう言っています。
「悪しき予言をする人は信じなくて良い」
投稿 by 小林正観さんファンのページ.
私もそう思います。
たたりがあるとか、方角が悪いなどと、余計なお世話ですよ。
そういうことを信じるから、悪いことが起こった時に、「予言が当たった」と思い、また信じるようになります。
でもこれ、恐怖心(=不安)を肯定しているんですよね。
いつも言うように、不安というのは幻想です。実在しないものです。
でも、それを信じれば力を得て、存在し続けることになります。
つまりその人が、自分が信じることで存在させているのです。
占いも予言も、それほど意味があるものではありません。
ただ時間的な遠くを見て、「先にこんなものがあるから気をつけて」と言うくらいなものです。
穴があったって、必ずしも落ちるわけではありません。
穴があると知って気をつければ、その穴を活かすことができるかもしれないのです。
穴があることが悪いことじゃなく、その穴にどういう意味を与えるかが重要なのです。
だから私は、自分に起こることはすべて良いことだと決めています。
良いことしか起こらないのですから、何の不安もないのです。