以前の記事「ホ・オポノポノ的な見方について」で、ホ・オポノポノに対する私の考えを書きました。
正直に言って、いまいちピンと来ません。
この世の現象が幻想だとする点では納得するものの、潜在意識(ウニヒピリ)が見せてくれる記憶だということが納得できないのです。
「なんのために?」
それがわからないのです。
クリーニングされたいから見せてくれるのだとしても、「なぜクリーニングされたいのか?」とか、「どうしてクリーニングされなければ困るような仕組みになっているのか?」など、理解できないのです。
それともう1つ、私の心にブレーキをかけるものがありました。
それがクリーニングに使われる4つの言葉です。
「ありがとう」「愛しています」「ごめんなさい」「許してください」
最初の「ありがとう」「愛しています」はわかります。
でも、後半の2つは、言うことに抵抗を感じていました。
「なぜ私が詫びなければならないの?私は何も悪くないのに。」
しかし最近、この言葉の意味がわかるような気がしてきました。
今日は、そのことについて書きますね。
今朝もまた、日課にしているベランダの観葉植物たちへの声掛けをしました。
それぞれが、見事に成長しています。ハツラツとしたエネルギーを感じます。
そのときふと思ったのです。
「もし、この植物たちが突然枯れるようなことがあったら、自分はどう思うのだろう?」
声をかけることで植物たちが元気になる。
こういう因果関係なら納得できるし、喜ばしいことですけど、そうならないことだって考えられます。
「そのとき私は、なんと言って声を掛けるのだろう?」
「あるいは、誰かが私の意図しないところで、この植物たちを刈り取ったらどうだろう?」
さすがにベランダに侵入して刈る人もいないでしょうけど、一般の戸建住宅だと、庭の花を摘み取られたなんて話を聞いたことがあります。
丹精込めて育てたのに、その生を無残に終わらせることになってしまったら・・・。
そう考えたとき、私はこう言うだろうと思ったのです。
「ごめんね、何もしてあげられなくて。助けてあげられなくて、ごめんなさいね。許してね。」
「でも、ありがとうね。あなたのお陰で、私は幸せでいられたのですから。あなたのことは忘れない。ずっとずっと、愛しています。」
そのとき、ゾクッとするものを感じました。
「これって、ホ・オポノポノで言うクリーニングの言葉じゃないの?」
たしかに、私が刈り取ったのじゃないかもしれない。
けれども私は、その植物たちに詫びると思ったのです。
なぜなら、恨みを抱き続けることは、とても辛いことだからです。
愛する植物たちを、そんな辛い目には合わせたくない。
そういう思いから、私は詫びるのです。そして、刈り取った人を許してやってくれとお願いするのです。
自分が助けてやれなかったことに対する詫びでもあります。
そして立場が変われば、私自身も刈り取る人間になるかもしれないという思いでもあります。
ひょっとしたら過去に、あるいは過去世において、私は刈り取った人間かもしれない。
だから今生で、そういう体験をすることになったのかもしれない。
そう思えば、今生で刈り取った人のことを、一方的に悪いとは責められません。
悔しいし、悲しいけれど、それでもやはり責めたくないのです。
そういった様々な思いがぐるぐると頭の中で巡った結果、言葉として出てきたのが、「ごめんなさい」「許してください」だったのです。
ひょっとしたらホ・オポノポノのクリーニングの言葉にも、こういう背景があるのかもしれない。
そんな気がしてきました。
2013年10月09日
この記事へのコメント
コメントを書く
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。