2013年10月02日

自分を縛って苦しめているのは自分

ちょっと前に、婚外子に対する遺産相続の権利を、嫡出子の半分にするという民法の規定が違憲だとの判決が、最高裁でなされました。

諸外国では、すでに平等に扱うようになっており、ここにも日本の常識は世界の非常識があったわけです。


ところがネット上では、日本の伝統をぶち壊すものだとして、批判する意見が続出しているようです。

以前に、選択的夫婦別姓制度の導入に関しても、根強い反対があって、法案の提出さえできない状況がありましたが、それも根源的に同じ思考によるものでしょう。


それぞれの人がどう考えるかは、当然、それぞれの自由です。

ですから、私は誰がどう考えるかということに関して批判も非難もしません。

ただ私は、一番の価値観は自由だと思っています。なぜなら、私たちの本質が自由であるからです。

なので、そういう立場から、私の考えを書きたいと思います。

 

人は、自由が侵害されると喜べないのです。ですから人類は、命がけで自由を勝ち取る戦いをしてきたのです。

そして、基本的人権のもっとも重要なものとして、自由を位置づけてきました。

法律とか規則というものは、ある意味で自由の侵害です。ですから私は、そういうものは少なければ少ないほど良いと考えます。


特に、何かを規制することによって社会の価値観を守ろうとする考え方は、不要な規則を生み出していると思います。

最初に示した婚外子の差別や、別姓制度の否定も、その範疇です。


子どもには何の責任もないのに、親が結婚しているかどうかで法律上の差別を受けるということが、本当に正しいことだと考えるのでしょうか?

おそらく多くの人は、そうは考えていません。

正式に結婚せずに子どもを作ることが親の無責任であり、それを防ぐためには仕方ないことだと考えているのです。


でもこれって、論理的に矛盾していますよね。

不利益を被っているのは婚外子であって、その親ではありません。

結婚という制度を守ることが目的だとしたら、その目的に適っていないという意味で、これは役に立たない規則です。


また、突然に隠し子が現れて夫の不倫を知った妻が、自分の子と同じ相続権を主張されることが気に入らないという考えもあるでしょう。

でもこれも、論点がずれています。

まず妻の相続権は、子どもの数が増えても侵害されません。減ってしまうのは、嫡出子たちの方です。

それに今の法律では、不倫に対しては損害賠償を請求できます。いわゆる慰謝料ですね。

ですから、相続に関して差別することで解決する問題ではないのです。


では嫡出子はどうなのでしょう?たしかに、婚外子が現れれば、取り分が減るということはあります。

でも、様々なケースが考えられることを考慮しなければ、法律としては偏っていることになります。


たとえば、男性が結婚していない女性と一緒に暮らし、子どもも生まれ、穏やかに暮らしていたとしましょう。

ところがその男性が急死しました。子どもにとっては、最愛の父親が亡くなったのです。

そこに、他の女性がやってきて、自分はその男性の正式な妻だと主張します。そして、子どももいると。

法律的には結婚していない女性とその子どもの方が、その男性にとっては家族だったはずです。

ただその女性は、自分は結婚していないのだから、相続権がないことは知っていたでしょう。

でも子どもは、間違いなくその男性の子どもだし、遺産を相続できると思っていたはずです。

それが突然、本妻だと名乗る女性の家族が現れ、遺産のほとんどを根こそぎ奪っていく。

少なくともその女性やその子どもには、そう感じられるでしょうね。


「悪いのはその男性なのだから、その男性を恨め!」

そういう意見があることは知っています。でも、それは非嫡出子を差別する根拠にはなりません。

もし差別があったとしても、仕方ないと受け入れろというだけのことで、差別の解消が良いか悪いかの判断材料を提供していないからです。

 

話は変わりますが、最近、「できちゃった婚」「授かり婚」と呼び変えて、推奨する動きがあるようですね。

それについて、賛否両論あるようです。

これまた、伝統を壊すとかの批判がありました。


たしかに伝統が崩れていくことには違いないでしょう。

でも私たちはすでに、平安時代や戦国時代、江戸時代の伝統さえ崩して生活しているではありませんか?

せいぜい、数十年前から行ってきたことを守ろうとしているだけ。

歴史を見ればそれは明らかなのに、自分が見ている範囲の伝統を、あたかも伝統のすべてかのように考え、それにこだわっているだけではありませんか。

私たちは、伝統の奴隷になるべきなのでしょうか?


今、ここで生きている私たちが、いわれのない制限を受けることで不便を感じているのなら、その制限の奴隷になるべきではない、と私は考えます。

すべての人を夫婦別姓にしなければならないと決めるなら、それもまた制限です。

でも、別姓にしたい人が別姓になるだけなら、それは個々人の自由ではありませんか。


多くの人は気づいていませんが、日本にも夫婦別姓の時代がありました

日本の伝統と言うなら、夫婦別姓こそが伝統なのです。その伝統を変えたのが近代です。

たとえば源頼朝の奥さんの名前は知ってますよね?

源政子ですか?違いますよね。北条政子です。

それに、庶民が姓を名乗れたのは明治以降ですよ。伝統を守れというなら、姓を廃止しますか?

そういった歴史も知らずに伝統を守れと言うなら、それは「自分が伝統だと思っている価値観」を押し付けているだけのことです。


また現代の日本にも夫婦別姓はあります。知ってましたか?

何を隠そう、私たち夫婦がそうです。

私の姓と、妻の姓は同じではありません。それで戸籍に登録されています。

どうしてそうなるかと言うと、妻がタイ人だからです。

タイは選択的夫婦別姓制度を導入しているため、結婚しても姓を変更する必要がなかったのです。

そのタイでの婚姻を基に日本で結婚を届けたため、別姓のまま戸籍に登録されたというわけです。


それによって、家庭が崩壊しているでしょうか?

少なくとも私は、そうは思いません。

むしろ、互いに感謝しあってラブラブな夫婦、互いに思いやっている家族が他にあろうかと、自慢したいくらいです。

姓が異なっていることは、二人の間では何の障害にもならないのです。

もし障害があるとすれば、誰か他の人が、2人の姓が異なることで夫婦として扱わない場合でしょうね。

今のところ、日本に入国するときの税関審査でも、口頭で「夫婦です」と言うだけで、特に問題は起こっていません。(税関申告書は家族で1枚ですから。)

外国人と多く接している税関の人たちは、姓が異なるから夫婦じゃないとは、思わないのでしょう。


つまり、たいした問題じゃないのですよ、夫婦が別姓だって。

ならば、そうしたい人には、そうさせてあげたら良いではありませんか。

そうしたくない人は、そうしなければ良いだけです。

どうしてそう他人に対して狭量なのでしょう?どうして他人に、自分の価値観を押し付けなければ気がすまないのでしょう?

そんなにまで不安なのですか?



問題はそこにあります。

自分が苦しんでいるのは、自分が幸せになれないのは、自分と同じ価値観を共有しない他人のせいではありません

どうしても他人に自分の価値観を受け入れさせなければならないと考える、そのこだわり、つまり執着心が、その人を苦しめているのです。


幸せになりたいなら、自分の心を解き放つことです。

こだわり、執着心、依存心というものを捨てて、自由になることです。

人は本来、自由なのですから。その自由な自分を狭いかごの中に入れていたのは、自分自身です。

そのことに気づけば、今すぐ、そのままで、誰もが幸せになれますよ。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:11 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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