2013年09月17日
東井義雄「こころ」の教え
前回の「仏の声を聞く」に続いて、東井義雄先生の本を読みました。
今回の本は、小学校や中学校の校長だったとき、生徒との間で行ったリレー交換ノートの中から抜粋してまとめたものです。
これを読むと、東井校長がどういう視点で生徒を見ていたかが、よくわかりますね。
「大きな困った問題がやってきたときにも、「いやだなぁ!困った問題を起こしてくれたものだなぁ」と、泣き言を言うのではなく、
「これはいい問題だぞ。よし、自分の力がどれくらいのものか、力だめしをしてみよう」
と、進んで、その問題にぶつかっていくような考え方が、
「問題に感服して答案を書く」
ということだろうと思います。」(p.131)
こう言って、遠足で30kmを歩き抜いたことが印象に残っているという生徒の前向きな姿勢をほめ、そういう生き方をこれからもするようにと励まします。
また、勇気を持って自分の足で幸せへの一歩を踏み出したいという小学生に対しては、次のような言葉を贈っています。
「ところが人間というものは、右か左か、幸か不幸か、その道を選ぶ自由を持っています。その自由をうまく生かして、幸福への道を進めば幸福のところへ行き着くことができるのです。不幸になりたければ、そちらの道を選んで進めばいいのです。自分の責任で、その道を選ぶ自由が、人間にはあたえられているのです。」(p.141 - 142)
真理をわかりやすく、かつ子どもだからといって曲げることなく、まっすぐに伝えようとされています。
また、次のようなこの世の深遠な本質を、小学生に対して伝えることもあったようです。
「大宇宙はひとつのいのちのあらわれなんです。いのちは一人ひとりのものであるとともに、みんなつながっているんです。」(p.181 - 182)
「ひとつひとつばらばらのいのちに立てこもって、ほかのいのちをやっつけようというのは、やはり、頑固にすぎないでしょう。ときには、他の多くのいのちを守るために自分は犠牲になり、自分をほかのいのちのなかに生かしていく、という生き方もあるわけです。」(p.182)
東井先生がこのような深い考えを抱くようになられたのは、やはり若くして両親と死に別れることになったり、ご自身も大病を患われたり、お子さんもまた同様に生死の間をさまよわれるような、大変な出来事があったからだと思います。
その経験を、子どもたちににも率直に語られています。
「たとえば、わたしは小学一年で母を亡くしました。家中で一生懸命、よくなってくれるように努力しましたが、死んでしまいました。不幸な運命だったわけです。しかし、そのことによって、わたしは親のない子の不幸というもの、親のありがたさを勉強しました。」(p.161)
「自分の子どもが何ぺんも死にかけました。それによって、”生きている”ということが、どんなにすばらしいことか、”生きている”ということをもっともっと真剣に大切にしなければならない、とういことも学びました。」(p.162)
このように、ご自身のたいへんな経験の中で学ばれたことを、小学生や中学生を相手にしても、真剣に共有しようとされているのです。
「わたしは、家の子どもが大病をして、もう今夜はいのちが持つか持たないかわからない、というようなときにも、病気をなおしてやってくださいとおねがいしたことは一度もありませんでした。子どもが入学試験を受けるときにも、合格させてやってくださいとおねがいしたことは一度もありませんでした。そのわけは、わたしの信じている仏さまは、おねがいしなかったら言うことをきいてくださらないようなケチな仏さまでないことを、深く信じているからです。」(p.196)
出来事が起こるには、起こるだけの理由(天意)がある。
だから私たちは、それをしっかりと受けとめて、その上で幸せになる生き方を選択する。
それが東井義雄先生の教えなのだと思いました。
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