死因は腎臓の病気のようですが、詳しくはわかりません。
日本では、1周忌が過ぎてから祥月命日ということで、毎月の命日と同じ日に法要を行うようです。
まあ一般的には、特にお寺さんに何かをしていただくというより、お墓参りをしたりするくらいでしょうか。
タイでは、初七日とか四十九日という法要は、どうやらなさそうですね。(未確認です。)
その代わり亡くなられた日の翌月から、同じ日にお寺に行ってタンブン(徳を積むこと=お参りしてお布施をする)をするようです。
妻のお義父さんは、私とそれほど歳が違いません。たしか54歳くらいだったと思います。
4月のソンクラーンのときにお会いしたのが最後になりました。
以前はお酒をよく飲まれていたそうですが、今はもう飲まないと言われてたのに、このときばかりは私を誘ってくださって、一緒にビールを飲みました。
娘が、自分と同じくらいの歳の、しかも異国の男と結婚する。
そのことをどう思われたのか、聞いたこともないのでわかりませんが、よく許してくださったものだと思います。
特にお金を無心されるようなこともありませんでした。
娘が幸せならそれでいい。そのくらいの気持ちではなかったかと思うのです。
一方、私の父親は、最初は反対していましたからね。
もう50歳にもなろうという息子が結婚するのに反対だなんて、私からすれば「何を考えてるの?いい加減にしてくれよな。」と言いたくなるところです。
もちろん、それは子どものことを心配する親心とは思いますけどね。
その父も、今では完全に心を開いてくれました。私と妻が幸せに暮らしているから、安心してくれたのでしょう。
お義父さんを亡くして、妻は寂しい思いがあるようです。当然のことだと思います。
写真を見ては、寂しさが込み上げてくるのでしょう。
せめてもの救いは、結婚して幸せに暮らしている様子を見せられたことでしょうか。
そういう意味では、今年の4月に一緒に田舎に帰ってあげたことが、妻のためにとても良かったと思います。
人は、いつ亡くなるかわかりません。
明日があると思っているのは自分だけで、そんなことは誰にも保証されていません。
だからこそ、今日を精一杯、自分らしく生きなければと思うのです。
親鸞上人も、次のような歌を遺しています。
明日ありと 思う心の 徒桜(あだざくら) 夜半(やわ)に嵐の 吹かぬものかは
将来のことが不安になって、今、萎縮してしまうなら、もったいないことだと思います。
明日は明日で何とかなる。そう腹をくくって、今を自分らしく生きよう。そう思います。