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最近、「【「神との対話」シリーズから】」というタイトルをつけて、「神との対話」シリーズの本を引用しながら、その内容をお伝えしています。
今は1冊目の「神との対話」から始めていて、今日、3回目を投稿したところです。
今日、投稿した内容は、私たちの感情や思考には「愛」と「不安」しかないという話でした。
その前の投稿は「引き寄せの法則」について書かれていた部分で、要は絶対的に神を信じることが重要だというものでした。
この中で私は、「神を信じろ」と言われて「盲信」することに不安を感じる、と書きました。
そして、「神を信じることと、教祖や宗教組織(=他者)を信じることは、まったく別のこと」だという答も合わせて書きました。
今日は、そのことについて簡単に説明したいと思います。
答をズバリ言うと、「神を信じる」ということは、「自分を信じる」ということなのです。
なぜか?
それは、自分自身が神だから。
まあ、これだけだと、初めてこのブログを読む方からすると、もっとわからなくなったかもしれません。
あるいは、私のことをとんでもないヤツだと思われたりして・・・。
私のことが悪く思われるのはまったくかまいませんが、それによって真実を知る機会が奪われるのは残念なので、もうちょっと丁寧に説明します。
「神」とは、「すべて」の存在であり、この世のプロセスです。
東洋では「天(てん)」と呼んだり、「道(どう,タオ)」と呼んだり、「空(くう)」と呼んだりしますが、みな同じことです。
宇宙霊とか、サムシング・グレートとか、ワンネス、エネルギー、生命など、すべて同じことを言っています。
つまり、この世は本来、分別されたものではない、「ひとつのもの」だと言うことです。
本質が「ひとつのもの」だとしたら、私たちの存在もまた、その「ひとつのもの」ではありませんか。
これを東洋では、宇宙霊に対する「分け御霊」という言い方をします。
つまり宇宙霊も分け御霊である私たちの魂も、本質的に同じものだということです。
ですから、神とか宇宙霊に対して祈るということは、自分自身、あるいは自分の内側に対して祈るということになります。
ここが重要なのです。
自分の外にある、何か自分とは別の、分離した何かを神と思っているから、間違うのです。
それと同じ考え方で、自分には何の能力も権威もないから、自分とは別のもっと能力や権威があるものを頼ろうとして、教祖とか宗教組織の言いなりになろうとするのではないでしょうか。
それを本当の意味で「盲信」と呼びます。
しかし、そうすることによって、自分自身がないがしろにされていますよね。
本当は、神は自分の中にあるのに、その神をないがしろにして他を探しにいく。
だから見つからないのです。
他人は、その人の人生をその人なりに生きようとしているだけです。
その人の言うことを、そのまま自分の真実にすることはできません。
それはその人にとって真実だ、というだけなのですから。
自分の真実は、自分自身に問うべきです。
ですから、「教祖や宗教組織(=他者)」を信じてはいけないのです。
もちろん、私の言うことも信じてはいけませんよ、絶対に。
私の言うことが自分の真実だと感じたら、それを感じた自分自身を信じるのです。
それが、神を信じるということなのです。
なお、1回目に掲載したものは、神とコミュニケートする方法についてでした。
神は、言葉よりも感情や経験などを通じて、すべての人とコミュニケートしている、と言っています。
つまり、自分の感情とか経験の中に神を見よ、ということなのです。
ほら、さっき言ったことと同じでしょう?
2013年09月07日
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