2013年08月12日

叱ることは教育に必要ですか?

またまた面白いニュースがありました。

今度は、万引きした子を叱るかどうかという議論です。


尾木ママこと教育評論家の尾木直樹さんは、「叱らない子育て論」を提唱している方。

その尾木ママが講演の中で、次のようなことを言われたのだとか。

万引きしても怒鳴らず、『どうしたの?』と優しく声をかけて

それを福井新聞が報道したところ、ネットで批判されるようになったようです。

万引きは犯罪なのだから、それは叱らないとダメだ。

悪いことを悪いとわからせるために、叱ることが必要だ。

だいたい、そのような意見です。


これに対して、尾木ママを擁護する意見もあるそうです。

怒るのは理由を聞いてからでも遅くない。

頭ごなしに叱るのが悪いと言っているだけ。

こんな感じです。


叱るのは絶対にダメなのか、それとも、叱り方の問題なのか。

結局、その真意がどうだったか、本人には確認できなかったようですね。

 

さて、前回の体罰の問題もそうですが、根本の問題が理解されていないと感じます。

「叱る」というのは、どういう意味か?ということです。

叱ることの本質を知ることで、その根本問題が見えてきます。

 

「怒ると叱るは違う」という人がいます。

たしかに、「怒る」は感情を爆発させることで、「叱る」は感情的にならないことだ、とも言えそうです。

では、感情を爆発させなければ良いのでしょうか?

 

尾木ママへの意見を見てください。

悪いことを悪いとわからせるために叱るべきだと言っていますよね。

悪いことを悪いとわからせるのに、どうして叱ることが必要なのでしょう?


もし理屈を教えたいなら、その理屈を納得できるように説明したら、それで良いではありませんか。

それなのに「説明」と言わずに「叱る」と表現するのはなぜでしょう?


擁護する側の意見も、怒るのは子どもの気持ちを聞いてからというものがあります。

子どもの気持ちを聞いた上で、なお怒らなくてはならない。

それが叱るということでしょうか。


このような意見から、叱るという言葉が意味するものが見えてきます。

つまり、「怒る」であろうと「叱る」であろうと、相手を強制しようとしていますよね。


相手に理屈を教え、納得させるだけではダメなのでしょう。

もし相手が納得しない場合は、恐怖心とか苦痛を与えてでも受け入れさせずにはおかない。

「叱る」という言葉には、そういう思いがあるのではないでしょうか?


もしそうなら、「叱る」とは相手を強制することです。

つまり、自由を奪うことです。

強制的に子どもに価値観を植え付けること。


それが「叱る」という行為なのです。

 

尾木ママはおそらく、それがダメだと言っているのでしょう。

私も同感です。

体罰の本質も強制でした。

強制することが問題だと気づかないと、体罰や叱ることの問題がわからなくなってしまうでしょう。

 

強制したら自律心が育ちません。

それが重要な問題なのです。


自分が、やってはいけないと考えたからやらないのではなく、誰かから叱られるからやらない。

そういうようになります。

つまり、叱られなければOKなわけですから、今度はバレないようにやるでしょう。


万引きは犯罪だから苦痛を与えて良いというのは、何も考えずに現状を追認しているだけです。

犯罪には罰を与えるものだと、何も考えずに思っているのです。

罰を与えれば、犯罪はなくなりますか?

もしなくなるなら、再犯なんてあり得ない話ではありませんか。

しかし、一度でも犯罪を犯した人の方が、犯罪への垣根が低くなります。

いくら罰を与えて脅しても、自律心のない人には何の効果もないのです。


したがって、それを言うなら犯罪だからこそ叱ってはいけないのです。

おそらく本人だって、それが犯罪だと知っていたはずです。

でも、それをやってしまうほどの動機があった。

そこを解決しない限り、その子の自律心は育ちません。



寂しくて、注目されたかったのかもしれません。

誰かから指示されて、断れなかったのかもしれません。

いずれにせよ、その子は何かに依存していて、自律心が育っていないのです。

 

何か問題があったとき、すぐに他人を批判するのは、自律心が育っていない証拠です。

不平不満から愚痴をこぼすのも、自律心が育っていないからです。

ぜんぶ他人のせい、環境のせいと考えるのは、それらに依存しているからです。

その依存心をなくさないと、自律心があるとは言えないのです。


自律心がない人は、他人の目ばかり気にします。

ルールがどうなっているかを気にします。

つまり、世間の価値観にしたがっていれば自分が責められないと感じているのです。

そのもの自体が善いか悪いかを、自分で決められないのです。


自分がルールを破ったにもかかわらず、「他の車だってスピードを出している」と言って逆ギレする人は、自律心がない人です。

そういう人は、バレなければ良いと考えて、平気で浮気をします。

浮気をすることが悪いからやらないと考えるのではなく、浮気は悪いと知っていてもやりたいから、バレなければ良いだろうと考えるのです。


同じスピード違反で捕まっても、自分は運が悪かっただけだと考える人は、まだ自律心があります。

たしかに法律違反ですが、自分では、この場所でこのくらいのスピードなら問題ないと判断したのでしょう。

もちろん法律違反ですから、ルールにしたがって処罰されます。

でも、それだけのことです。

ルールはルール。

それに従うかどうかは自分の心が決める。


それが自律した人の考え方です。

 

自律心のある人は、自分のルールを自分で決めます

ですから、自分が理屈で納得したことには従うのです。


たとえば飲酒運転ですが、自律心のある人でも、これくらいのアルコールなら大丈夫だと考えるかもしれません。

しかしその後、様々な情報が入ってきます。

ちょっとしたアルコールでも、反射神経の活動が鈍ることがわかります。

飲酒運転で事故を起こした場合、制裁が大きいこともわかります。

そうなったとき、それでも飲酒した状態で運転するメリットがあるのかどうかを冷静に判断するでしょう。

その結果、やはり飲酒運転はやめようと決断するかもしれません。


そうなったらもう、感情に流されません。

だって、自分が決めたルールなのですから。

誰かに知られるかどうかなど、どうでも良いのです。

そのルールを守ることが自分らしいことかどうか。

それだけが問題になるのです。


 

体験というのは強力です。

万引きという体験を生かすには、そこでしっかりと感じて考えることです。

その気持ち悪さをごまかさずに感じ切り、他の何かのせいにすることをやめる。


そうしたなら、どうしてまたそんな体験をしたいと考えるでしょうか。

考えるはずがありません。


恥ずかしながら私も、万引きを体験しています

それはブログに書いた通りです。

あのときは想像力が足りなくて、万引きされる側の気持ちがわかりませんでした。

でも後になって、何度も何度もその体験を思い出す中で、私はもう二度とやるまいと決めたのです。


あのとき、もし誰かに見咎められて叱られたら、私は言い訳をしたかもしれません。

そしてその言い訳を何度も繰り返すうちに、その言葉で自分自身を洗脳したでしょう。

「だって仕方ないじゃないか。盗まれる方だって悪いんだよ。」

もし私に自律心がなかったら、私が盗人になることさえ世間や周りの他人のせいにしたでしょう。

 

教育に、怒ることはもちろん、叱ることも必要ありません。

ましてや体罰という名の暴力も、まったく必要ではありません。



それらが必要なのは、緊急避難的に何かを防御するときだけです。

相手の暴力を止めるために暴力を用いる。

現状ではそれが必要になるでしょう。

しかしそういう防御は、教育とは何の関係もないものです。


教育は、相手の自律心を育てること。

尾木ママが言うように、愛情をたっぷりかけて育ててあげることだと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:17 | Comment(0) | SJ通信過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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