これを単なる歴史小説と呼んでよいものか・・・。
読み終えた今、私の中にそういう思いが湧いてきます。
それはもちろん、「否、単なる小説ではない」という答を伴って。
作者は神渡良平さん。日本の精神的な拠り所でもある神話を、小説として現代に蘇らせました。
ただし、それは古語で書かれた神話を現代語訳したというものではありません。
古事記や日本書紀に描かれた神話の中に、人間の営みがあったことを表現しようとされています。
その根拠としては、「ホツマツタエ(秀真伝)」という縄文文献をあげておられます。
古事記や日本書紀は、新政権が自らを正当化するために、書き換えられたのではないかと判断されたのでしょう。
これにより、天照大神(あまてらすおおみかみ)は男性のすめら尊(みこと)として、日本を実際に統治したことになっています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)も、世継ぎ候補として、西の熊襲(くまそ)を征伐し、次は東を従えに行き、最後は大和(やまと)に戻れずに死んでしまいます。
その過程で様々な物語があり、この小説では、それがすべて日本武尊の成長につながっているという視点から書かれているのです。
天皇には、神と人とをつなぐ役目がある。
だから自らに厳しくし、身を清め、心を磨いて、民草の親とならなければならない。
日本武尊は、そういう自分の立場を徐々に自覚しながら、立派な世継ぎとして成長していくのです。
神渡さんは、自ら日本各地を訪れ、この小説のための取材をされています。
伊勢神宮に参拝するときの詳細な描写がありますが、これなども神渡さん自身が何度も参拝された経験があるから書けることだと思います。
そして最後に、人とは何かということを、日本武尊の死に際の言葉として、的確に表現されていました。
「やっと気づいたよ、人はみんな神なんだって。神が人という衣を着て地上に現れ、それぞれに与えられている境遇で道を立てるのが人生なんだ。日本では古来、われわれを霊止(ひと)と呼んできたが、それはわれわれの本質は神の分霊(わけみたま)であって、肉体はその入れ物でしかないと直感していたからなんだ。
だから与えられている境遇に不満をいうのではなく、その状況の中で立派に道を開き、人としての証を立てる−−これが人生なのだ。」(下 p.268 - 269)
この部分を読んだとき、背筋がゾクゾクッとしました。
神渡さんの洞察というよりも、おそらく古代日本では、こういう見方をしていたのでしょう。
だから日本では昔から、死んだ人を神として祭ったのです。
また、「終わりに」で書かれていたので気づいたのですが、天照大神と弟の素戔嗚命(すさのうのみこと)との確執に関して、驚くべき解釈がありました。
兄を恨み、グレて大暴れした素戔嗚命は、高天原(たかまがはら)を追い出され、出雲で八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治します。
その功績によって、再び宮中に戻ることを許されたというのが神話です。
しかしそこには、聖書にある兄カインと弟アベルの物語にあるような、持てる者(愛された者)と持たざる者(愛されなかった者)との葛藤があり、天照と素戔嗚はその葛藤を乗り越えたという解釈があったのです。
「ところがその葛藤が、日本の場合には、幸いなことに、歴史の当初において、天照大神と素戔嗚命の間で乗り越えられ、歴史的和解に至っていた。だからこそ「和をもって貴しとなす」ことが受け入れられる精神的土壌ができ上がったのだ。」(下 p.285)
世界を滅亡から救えるのは日本しかない。
そういうことを言う人がけっこういるようですが、私もそんな気がします。
キリスト教もイスラム教も、どちらもユダヤ教から生み出された兄弟のようなもの。
それがその葛藤を乗り越えられず、地球を滅ぼさんばかりの争いを続けています。
天照大神と素戔嗚命は、どうやってその葛藤を乗り越えることができたのか?
日本人としてその歴史を知ることは、世界を救う日本になるための第一歩なのかもしれません。
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