誰もが、今あるそのままで、たいした努力もなしに、幸せになることができる。
それが、私が勧めている幸せになる方法です。
いつもは、その方法を直接的にお話しているのですが、今日は逆に幸せになれない人の思考法について、考えてみたいと思います。
私がお勧めする方法とまったく逆のことをやっているわけですから、それを知れば逆に、どうすれば幸せになれるかもわかると思うのです。
幸せになれない人は、ともかく現実に引っ張られます。特に、他の人に対して引っ張られます。
これを別の言い方をすると、他人に依存している、ということになるのです。
具体的な例で見てみましょうか。
最近、私のブログの特定のページに、恐ろしいほどアクセスが集まっています。
「映画「ワールド・ウォー Z」を観ました(ネタバレ注意)」という記事です。
日本での公開が明後日(10日)のようですから、注目が集まっているのでしょう。
このブログは幸せになる方法について書いているので、映画の評論をしているわけではありません。
ですから上記の記事も、幸せになるという観点から書かれたものです。
しかし、検索して私のブログに辿り着いた人の多くは、幸せになる方法を求めているのではなく、純粋に映画の情報を知りたい方が多いのでしょう。
そのせいか、私が書いた記事に対して批判的な人が多いようです。
コメントを読んでいただければわかりますが、ほとんどが私への反論です。
誹謗中傷的なものはコメント欄に掲載していませんから、本当はもっと多いのです。
冷静に私の記事を読めば、私が映画を観て感じたことを書いているだけで、映画そのものへの批判でも批評でもないことがわかっていただけると思います。
あの展開だと満足できないのが私だと、自分の気持ちを表明しているだけなのです。
しかし私に批判的な方のコメントは、そう考える私をおかしいと断定しています。
そして、私の考え方を改めさせずにはおかないという気持ちが伝わってきます。
どうして他人である私が考えることを、放っておけないのでしょう?
私がそう考えることで、誰かが迷惑するのでしょうか?あるいは誰かに実害を与えているのでしょうか?
おそらくそんなことはないはずです。ただ単に、私が考えたいように考えることが気に入らないのでしょう。
他人の考えが気に入らないと批判する人は、他人を変えようとしています。
なぜなら、他人がそういう考え方をしていると、自分の気分が悪いからです。つまり不幸なのです。
だから気分良くなりたくて、その原因だと考える他人の考えを変えようとしています。
つまり幸せになろうとして、他人を変えようとしているのです。
他人が自分の思い通りに変わってくれれば幸せになる。でも変わってくれないと不幸のまま。
これはまさに、自分の幸不幸が他人に依存している状態ではないでしょうか?
DV(家庭内暴力)が問題になりますが、あれも同じことです。
相手(たいていは女性)を自分の意のままにしようとして暴力を振るうのです。
暴力は単に手段ですから、それが暴言であろうと、態度で脅すだけであろうと、無視することであろうと、その本質は同じです。
要は、相手を自分の思い通りにしたい、そうしないと自分の気分が悪いということです。
だから、相手を変えようとして、最終手段として暴力を振るうのです。
メルマガ「SJ通信」に書いたものを載せた記事「体罰は教育に必要ですか?」でも、そのことを指摘しています。
躾(しつけ)と称して子どもに体罰を与えるのも、その精神構造は同じです。
相手を変えようとして、その最終手段として暴力を振るっているだけです。
そこにも書きましたが、その精神構造の根底には、「自分は正しいが、相手は間違っている」という考え方があります。
上記の映画の感想に批判的なコメントをされてる方も、自分の考え方が正しく、私の考え方が間違っているという観点から批判されています。
考え方は人それぞれとか、考え方や感じ方が違うのは当然だという、現実的な発想がないようです。
なぜそんな風に考えてしまうかというと、不安だからです。
本当はただ、自分の考え方(価値観)と違う人がいるだけなのに、それをその人が正しいなら自分が間違っていることになりはしないか、と不安なのです。
あるいは、自分と違う考え方をする人が、自分の考え方を否定していると感じるのです。
自分の考えが否定されるということは、すなわち自分自身が否定されたのと同じ。そう感じてしまうのです。
疑心暗鬼と言ってしまえばそれまでなのですが、不安が強い人は、そういうように感じます。
だから他人と同じであることに安心するし、空気を読むだとか、常識にしたがうことに、異常に熱心になるのです。
そしてそれは自分だけではなく、他人にも押し付けずにはおれないという衝動になります。
私自身がずっとそうだったのですから、その気持はよくわかります。
他人の不自然(=自分とは違う)な言動に腹を立てるのは、自分が否定されたような気持ちになるからです。
自分が否定されることは、自分の存在が脅かされていると感じるほど、不安でたまらないのです。
だから必死で自分を守ろうとして、相手に対して攻撃的になります。
つまり、相手を批判したり、非難したり、誹謗中傷するのです。それが最終的に暴力へ行き着きます。
そういう不安でたまらない状態は、幸せではありません。不幸です。
そういう不幸な状態を必死で打開しようとして他人を変えようとするのですが、多くの場合、それは成功しません。
なぜなら、他人は別の存在で、違いがあるのが当然なのですから。
そして人は自由ですから、他人は他人の思うがままに行動します。言い換えれば、他人は変えられないのです。
逆の方から考えると、先ず最初に、人はそれぞれ違いがあるという現実があります。そしてそれぞれが自由です。
そういう厳然たる事実があるにも関わらず、その事実を無視して、他人は自分と同じようであるべきだと考えることに無理があります。
無理があるにも関わらず、そこに執着しているために、自分の思いを成し遂げることができずにいる。
思いが成し遂げられないのですから、不満が溜まります。ストレスが溜まります。イライラします。これが不幸の構造です。
このように、他人を変えようとする考え方の原因は、自分自身の心の不安にあります。
それなのに、その本当の原因に気づかず、他人とか周りの環境、つまり結果として生じている部分を直接に変えようとするから、それができずに不満が溜まってしまいます。
こういう考え方から脱却できない間は、本当の意味では幸せにはなれません。
時には他人や周りの環境が思い通りになることもあるでしょう。そんなとき、瞬間的にホッとし、幸せを感じることもあるでしょう。
けれどもそれは、どうなるか自分でコントロールできないものに依存した、不安定な幸せにすぎません。
ですから結局、いつまでたっても他人や環境に翻弄される生き方になるのです。
もちろん、ここで言っていることも私の考えであって、これが絶対的に正しいとか、優れているなどと言うつもりはありません。単に1つの考え方に過ぎませんよ。
同意される方は同意されたらいいし、同意したくない人は同意しなければ良いだけです。
自分の考え方で充分に幸せだと思われるなら、それで良いではありませんか。
幸せな人は、他人を変えてやろうなどとは思いません。他人には他人の自由があるとわかっているからです。
他人がどうかによって、自分の幸せが左右されることはない。
それがわかっているから、他人を自由にさせられるのです。
他人に依存している不幸な人だけが、他人を変えようとしてイライラを募らせるのです。
2013年08月08日
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