お勧めしている「みやざき中央新聞」のWEB版を、さっき読んだところです。
今週号の社説は、また心が大きく動かされる内容だったので、ぜひ紹介したいと思います。
タイトルは「一冊の本、一本のペンから」です。ぜひ、購読して読んでみてくださいね。
その内容は、最初に「ターミネーター」という30年前の映画の話から始まります。
私もこの映画は大好きで、TVでの放送も含めると、5回は観たと思います。
その映画で命を狙われる少年は、未来の指導者です。その指導者を抹殺するために未来から送られたのが、ターミネーターでした。
社説を書かれた魂の編集長・水谷謹人さんは、先月の12日、国連本部で行われた歴史に残る名演説を聞いたとき、この「ターミネーター」という映画を思い出されたのだそうです。
それはどんな演説だったかというと、演台に立ったのはマララという名の16歳の少女でした。
そう、パキスタンでタリバン武装勢力(TTP)から銃撃され、九死に一生を得た、あの少女です。
彼女はブログで、女性教育を禁止したり、女子校を破壊したりするTPPの活動を批判していました。
それが欧米社会で話題となり、パキスタン政府はTPPへの弾圧を強めるとともに、彼女を勇気ある少女として表彰したのです。
ところがそのとき、ブログでは匿名だったのに、パキスタン政府はマララの実名を公表してしまいました。
それによって彼女は、TPPから命を狙われることになったのです。
瀕死の状態から2度の手術によって蘇ったマララは、こうして国連本部での演台に立ちました。
そこで彼女は言いました。
「私は誰にも抗議していません。タリバンや他のテロリストグループへの個人的な復讐心から、ここでスピーチをしているわけでもありません。」
それは、また命を狙われるのではという不安からではありません。彼女は、死をも怖れない強い人になっていました。
「テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えたのでしょう。しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。」
では彼女は、何のために、何を訴えようとしてスピーチをしたのでしょうか?彼女はこう言います。
「私は声を上げます。といっても、声高に叫ぶ私の声を届けるためではありません。声が聞こえてこない「声なき人々」のためにです。それは、自分たちの権利のために闘っている人たちのことです。平和に生活する権利、尊厳を持って扱われる権利、均等な機会の権利、そして教育を受ける権利です。」
「ここで話している目的は、すべての子どもたちに教育が与えられる権利をはっきりと主張することにあります。すべての過激派、とりわけタリバンの息子や娘たちのために教育が必要だと思うのです。」
彼女はただ、すべての子どもたちが教育を受けられるようにしてほしいと、世界の人々、つまり私たちに訴えかけます。
そうする力がある、特に先進国の、そして発展途上国の指導者に対して。
そして、そういう国の指導者を選んでいる国民に対してです。
マララはこのことを、まったく恨みのない純粋な愛から行なっています。それが次の言葉に表れています。
「私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。
これは、私が預言者モハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。
これは、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、そしてムハンマド・アリー・ジンナーから受け継がれた変革という財産なのです。
これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そしてマザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。」
そして、このスピーチを聞く多くの人に対して、行動することを促してスピーチを締めくくります。
「無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。
1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。」
スピーチはユーチューブ(英語)で聴くことができますが、和訳は「The Huffington Post Japan」などのサイトで見ることができます。(上の動画は日本語字幕付きです。)
私はこのスピーチを和訳したものを読みながら、涙がこぼれるのを止めることができませんでした。
私たち人類は、これほどまでに発展してきたというのに、いまだにこんな簡単なことができません。
それは、「仲良く暮らす」ということです。
世界を見ても、身近な人間関係を見ても、互いにいがみ合い、攻撃し合い、暴力をふるい合っています。
誰かが貧困から抜けだせないでいるのに手助けしないのは、暴力と同じです。
誰かが飢えているのに食料を分けてあげないのは、暴力と同じです。
誰かがまともな教育が受けられないでいるのに放っておくのは、暴力と同じです。
世界には有り余るほどの富があると言うのに、有り余るほどの食料があると言うのに、その気になればすぐにでも貧困や飢餓を終わらせ、すべての人に教育が与えられると言うのに、私たちはそういう社会を創ってこなかったのです。
「そんなこと言われても、自分には何もできないよ。」
そう言いたい気持ちもわかります。
けれど、私たち一人ひとりが自分のこととして考え、自分が責任を引き受けない限り、何も変わらないのです。
ホ・オポノポノを信じる人なら、そういう思いでクリーニングをすることも1つの方法でしょう。
またマララが言うように、ペンを握って訴え続けることも1つの方法でしょう。
何ができるかはわかりませんが、何かができるはずです。
自分もその責任の一端を引き受け、何かをしたい。
そういう思いがあれば、方法は見つかります。そして、さらに良い方法がないかと探せば良いのです。
2013年08月05日
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