前に紹介した「伝わるのは愛しかないから」に続いて、日木流奈くんの本を紹介します。残念ながら、中古しか購入できないようですけどね。
前の記事にも書きましたが、NHKの番組で取り上げられたために、ヤラセではないかという疑惑があるようです。
アマゾンのレビューを見ても、半分くらいが最低評価をつけています。ただしそれは、本の内容に対してではなく、「ヤラセだから」という理由がほとんどでした。
私は、前にも書いたように、ヤラセかどうかは判断できません。ただ少なくともこの内容は、「神との対話」シリーズに匹敵するほど深いものがあると言えます。
今回も読みながら、思わず青ボールペンで線を引いちゃいました。もう売れません。(笑)
私が注目した部分のいくつかを、引用して紹介しましょう。最初は、罪悪感を感じて自己否定してしまう人に対するアドバイスです。
「その人たちが、もし今の自分の状態が、悪いことではなく、自分がそうなって当然なんだと認めてあげるところから始めると、とても楽になります。今の自分の状態を認めてあげて、自分に許しを与えるのです。ここに、言い訳や、自分は悪くないといったとらえ方をすると、またゆがみが起きますが、ただ認めてあげるということができたなら、人は最初の安らぎを得ることができます。心の病気も体の病気もすべて、「悪いのではない」と知ることから始めるのです。」(p.73)
他人に対してだけでなく、自分に対しても、善悪の価値観を押し付けないことが大切だと言います。
これって、なかなか出てこない発想なんですよね。そもそも善悪の価値観ありきからスタートする人がほとんどなのですから。
「それは、歴史を学ぶときもいっしょです。過去というのは学ぶためにだけ存在するのであって、それを理由にだれかを悪者にして、自分の正義を振りかざしても何にもならないのです。そうやって悪者を作っても、果たしてその人の心は晴れるでしょうか。(中略)
人は幸せになるために生まれてきたはずなのです。ならば、気づいた人は、今までどんな状態であっても幸せになることが大切な気がするのです。」(p.150)
他人や自分を裁くことには意味がない。そう流奈くんは見抜いています。罪を与えることより、気づいて改善し、幸せになることが大切なのだと。
これまで人類がこだわり続けて抜け出せなかった部分を、いとも簡単に突き抜けているのです。
「この一瞬をいかに生きられるようになるかは、過去を嘆かず、未来を憂えない体質に自分をすることが肝心です。(中略)
まずは自分を振り返ることから始めることが肝心です。ほかのだれかの行動をどうこうしようではなく、その起きた出来事や、他人が自分に向けてしたことに対して、自分がどう思ったか、どう対応したかなどを、もう一度、評価なく振り返ってみたときから、きっと何かが見えてくるのではないでしょうか。」(p.184)
私たちはすぐに、良いとか悪いとか評価をくだしてしまいます。流奈くんの姿勢は、つねに「評価しない」で「ありのままに見る」ことを貫いています。
「強制というものが存在しない中で、ただ受け入れられたとき、人はただ愛することができるのだと私は思います。
でも、昔、子どもだった大人は、やり直すには大人になりすぎてしまいました。では、そんな大人たちはどうしたらいいのでしょうか。(中略)
結論は、「今その時から始めなければならない」ということです。この瞬間を始まりとするのです。過去は過ぎたことで、今その傷ついている大人たちに必要なのは、自らを癒し、本当の意味で独立と共存を学ぶことだと思うのです。」(p.211 - 212)
つまり自由を認めることが重要だということです。子どもを強制したり、評価したりせず、自由にさせること。
それによって子どもは、自分らしく生きられるようになり、他人も自分も愛せるようになる。
これまでに紹介している子育てのプロの考え方とまったく一致しています。「子どもへのまなざし」でも、自由の重要性が説かれていました。
そして、すでに大人になった人たちへも、手遅れではないと言っています。
今から「自分を癒す」ことから始めて、少しずつ自分らしく生きられるようにしていくのです。
この点も、子育てのプロの考え方と符合します。そして、私が目指しているところです。
「今、一瞬に生きることを学べば、過去はただ未来へつなげるための学びとして存在するだけでよく、未来は憂えるものではなく、今こそがすべてだと言えるでしょう。」(p.213)
これはもう、高僧なみの達観です。驚きました。
「ですから、世の中で、個人的に起こっているように見える出来事も、各人が意識的に生きるために起きてくれた現象にすぎません。
起きた現象をどうとらえるかで、人々の意識の変革には大きな差が出るのです。病気になってくれる人、事故に遭ってくれる人、痴呆になってくれる人、不登校をしてくれる人、引きこもりをしてくれる人、心の病になってくれる人、そういった人々がいてくれるからこそ、私たちはそのゆがみに気づき、自分を見直すことができるのだと思うのです。」(p.229)
出来事はすべて必然で無駄がないと、私も常々言っています。
良いと思われる出来事も、悪いと思われる出来事も、すべてが自分のために起こっている。
それによって自分自身の在り方を見直し、決めることができます。その思考が、自分自身を創っていくのです。
「起きる出来事は大いなるものに任せるしかありません。自力ではどうすることもできないことが多いのですから。でも、その出来事の受け止め方は、自分の心がけ次第で大きく変わることになります。人が不幸なのは、「こうなるべきなのに、こうではなかったから自分は不幸だ」というのが多いような気がします。「こうなるべきだった」という仮定は、その人の思い込みでしかありません。」(p.231 - 232)
出来事がその人の幸不幸を決めるのではありません。その人の意志によって選択する考え方が決めるのです。
いかがでしょうか。これが、普通の人が書けるような内容だとは、私には思えません。
奇跡を認めたがらない人が多いことは、充分にわかっています。
しかし人は、自分が見たいものを見るのです。
奇跡に可能性の扉を開かない人は、たとえそこに奇跡が起きたとしても、それを見ることはありません。
これはどちらが良いとか、どちらが正しいとかいう問題ではなく、どちらの考え方を選択するかという問題です。
それぞれの人が、自分らしい考え方を選択すればよいと、私は思います。
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