「君に覚えておいてもらいたいことは、人生を信頼することだ。一時的に見捨てられたように感じたときは、今日のことを思い出してほしい。必ず、助けはくるとね。人生を信頼できる者にだけ、幸せは訪れるのだから。」(p.109)
これを読んだとき、私は鳥肌が立ちました。
「なんというシンプルで力強くて、ものごとの核心を突いた言葉なのだろう。」
そういう気持ちになったのです。
たしかに、幸せになるための一番のネックは、不安をどう取り除くかということにつきます。
不安が愛の対極であるなら、不安を取り除けばそこには愛しかなくなるわけですから、幸せになるなと言われても、ならずにはいられないでしょう。
ではどうやって不安を取り除くのか?
これはもう、信じるしかないのです。
重要なことですから、もう一度書きます。
不安を取り除くには、信じるしか他に方法はないのです。
「いやいや、使い切れないほどのお金があれば、不安はなくなるよ。」
そう思えるのは、貧乏なうちだけです。
そのことは、本田健さんの本を読めばよくわかります。金持ちには金持ちの悩みがあり、不安があるのです。
仮に世界中を手に入れたとしても、なお不安の種は尽きないでしょう。
なぜそんなことが確信を持って言えるかというと、大昔からすでに明らかにされていることだからです。
仏教ではこれを餓鬼(ガキ)と言います。
「このクソガキ!」と言って怒るときのガキは、仏教用語からきているのですね。
食べても食べても、まだ欲しがるのが餓鬼です。過食症という病気がありますが、これなどその典型ですね。
なぜお腹がいっぱいになっても食べたがるのか?
それは、本当に欲しているのが食べ物ではないからです。
本当に欲しがっているのは愛情です。逆の言い方をすれば、不安に怯えているのです。
本当は空っぽの(と感じている)心を愛で埋めたいのですけど、その代わりに食事を摂るのです。
いくら食べても、心が愛情で埋まるはずもありません。だから、もっともっとと欲しがるのです。
したがって、お金や何かをたくさん得ることでは、不安を取り除くことはできません。
解決方法は、本田健さんの「きっと、よくなる!」という本のタイトルではありませんが、そう信じることなのです。
この「信じる」ということは、もちろん私が考えついたことではありませんよ。これも昔から言われてきたことです。
たとえば、宗教というものは、そもそもそういう目的があったのです。
イエスも、「神を信じなさい」と何度も言っています。信じれば救われるのだからと。
キリスト教でなくても同じです。
西郷隆盛は敬天愛人という言葉で知られるように、天というものを信じ、天に身を委ねる生き方をしました。
このように、自分を超えたはるかに大きな存在、大きな力に対して、完全に従順になって任せること。それを「信じる」という言葉で表現し、多くの人がそういう生き方をしました。
では、そういう「信じる」生き方をした人の人生が順風満帆だったかというと、必ずしもそうではありません。
むしろ、苦難に満ちた人生であることも多いのです。
ですから、「ザ・シークレット」などで「思ったことが現実になる」と単純化して言っていますが、必ずしもそうではないということも事実です。
たとえば、聖人孔子の人生を見てもそうでしょう。
孔子そのものは、けして優遇された華やかな人生だったわけでもありません。
とりわけ、後を託そうとした弟子の顔回が若くして亡くなったときは、こう言ってその死を嘆いたのです。
「ああ、天我を滅ぼせリ、天我を滅ぼせリ」
これがどれほどの苦悩だったか、おわかりでしょうか。孔子の晩年の出来事です。
また、先ほどの西郷隆盛も3度の島流しにあっていますし、自殺未遂もしています。
とりわけ自殺未遂をしたときは、どれほど苦しかったことでしょう。
そうなると、次の疑問が出てきます。
「信じても困難が待ち受けているかもしれないなら、何のために信じるの?」
これに対して、前出の孔子がみごとに答えています。
詳細は以前、「君子困窮」という記事で書きました。
要は、もし信じることができるなら、困窮することがあってもうろたえることがない、ということになります。
考えても見てください。本当に重要なのは、心の平安なのではないでしょうか?
どうして使う予定もないお金を貯めようとするのかというと、たいていの人が「老後に備えて」と言います。
でも、老後の何にいくらお金がかかるから、いくら貯めておくというような、計画的な貯蓄ではありませんよね。
ただ漠然と不安だからと言って、できるだけの貯蓄をしようとするだけです。
もし、本当に「老後も何とかなる」と信じていたらどうでしょうか?
少なくとも、漠然とした貯蓄はしなくなるでしょう。
そう言うと、必ず出てくるのがイソップ物語の「アリとキリギリス」の話です。
「そうやって能天気だったキリギリスは、冬になったとき飢え死にしたんじゃないの?」
確かに、それはもっともな話です。何の備えもしなかったら、行き詰まってしまう可能性もあるでしょう。
問題にしなければならないのは、用心するかどうかではなく、怖れるかどうかなのです。
用心というのは、あらゆることを想定し、それに対する備えをすることです。
できる限りのことをやったなら、思い切って一歩を踏み出すことができます。
しかし怖れというのは、ただ心配して右往左往することです。
何をやっても怖れが消えることはなく、したがっていつまでたっても一歩を踏み出せません。
できる限りのことをやっても、上手くいかないことはあります。
けれどもそれを、完璧な結果だと受け止められるかどうかが重要なのです。
完璧とは、自分にとって役立つということです。
自分にとって役立つとは、魂の目的にかなっているということです。
もしどんな出来事が起ころうとも、それが完璧だと信じられたら、何を怖れることがあるでしょうか?
孔子は、天を信じたのです。
弟子の顔回が亡くなったことで一時的に取り乱したものの、それもまた自分にとって完璧なのだと受け止めたのです。
西郷隆盛もまた、天に対する忠誠心を捨てませんでした。
だからその後も明治維新の中心人物として、世界の歴史に残る偉業を成し遂げられたのです。
信じる対象は、神でも天でもかまいません。人生でも、宇宙エネルギーでも、生命でも、魂でも良いのです。
ともかく何らかの私たちの意識を超えたレベルの存在が、この世を上手くコントロールしていて、その働きに任せておけば必ず上手くいくと信じるのです。
どんな結果(出来事)が現れようと、それはすべて良いことです。
なぜならそれは、私たちの意識を超えたレベルの存在が完璧にコントロールした結果なのですから。
安らいで、その働きを妨げないようにすること。
それが、物ごとが上手く回り出すようにすることを助けるのに、もっとも有効な方法なのです。
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