昨日(7月7日)は七夕でしたね。各地で七夕のイベントがあったようです。
私にとって7月7日は、忘れられない日になりました。
七夕祭りの楽しい行事があったからではありません。何かがあったのではなく、何かがなかったのです。
そう、あれは6年ほど前のことでしたね。
その年の7月7日に、私は結婚するはずでした。
彼女の家でお坊さんを呼んで結婚式を行い、その後、バンコクで仲間内での披露宴を行い、日本でも披露宴を行うことにしていました。
それがたった1通のSMS(携帯電話のショート・メッセージ・サービス)でご破算になったのです。
詳しくは以前、「フラれてばかりの人生」という記事で書きましたので、そちらをご覧ください。
でも、その年の7月16日に今の妻と交際を始め、4年後には結婚することになりました。
人生は、何がどうなるかわかりません。
あの破談があったから、今の結婚生活があることは間違いなく、ある意味で今の幸せは、あの破談のお陰とも言えるのです。
あのとき私は、自分の人生を呪うこともできました。自暴自棄になることもできたし、相手のことをまったく考えない冷徹な人間になることもできました。
でも、そうなりたくなかったのです。
それは、私らしいと思えなかったから。
「私が苦しんで済むなら、それでいいじゃないか。」
そう自分自身を説得し、前向きに生きることに決めたのです。
なぜそのとき私は、そんなふうに考えられたのでしょうか?
もちろんこのことにも伏線があります。
1つは、20歳代前半での大失恋の経験です。
「辛い失恋もありました」で書いたように、呼吸もできないほど苦しみました。
その経験があったから、破談になったとき、それほど苦しまずに済んだのです。
また、それまで読んできた数多くの書物から得た知恵も、私の決断を助けてくれました。
とりわけ「神との対話」シリーズは、私に生きることの意味を教えてくれたという点で、手放せない本になっています。
「そうすることは自分らしいことか?」
「今、愛ならばどうする?」
この単純な2つの問いかけを教えてくれたのは、「神との対話」シリーズでした。
今、そのときの女性を思い出すことは、あまりありません。
仮に思い出したとしても、心はとても穏やかです。恨みとかの感情はまったくなく、むしろ感謝して、彼女の幸せを祈りたい気持ちです。
今思うに、私をフッた女性だけでなく、関わったすべての人々が、私を助けてくれたのだと思います。
優しい言葉も、ひどい仕打ちも、すべて私の今を創るもとになっています。
そういう人たちとの出会いがあったから、今の私がある。それは間違いないことなのです。
逆に言えば、今の自分を輝かせることができたなら、過去に出会った人々に栄光を捧げることになります。
自分の人生の中でくすんでいた人々を、一人ひとり磨き上げ、輝かせることができます。
そしてそうすることが、私にたくさんの贈り物をくれた人々に、報いることになるのだと思うのです。
過去でも未来でもなく、現在の自分がどうあるかによって、過去も未来も変えることができる。
そのことが、やっと実感できるようになりました。
これからも、7月7日が来るたびに、私は破談の経験を思い出すでしょう。
しかしそれは、私の心を突き刺す痛みではなく、私に愛を取り戻させてくれた有り難い出来事として、私の中で存在し続けるのです。
2013年07月08日
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