2013年07月06日

反省するよりも観察すること

「反省しなさい」「反省が足りない」などと、よく言われたものです。

そう言って叱られるたびに、心の中には嫌な気分がありました。

頭では、謝らなければいけないと思う。けれども、それを受け入れることを心が許さないのです。


以前に「非難することの目的」にも書きましたけど、「神との対話」シリーズでは罪悪感と反省は違うと言っています。

罪悪感は無意味だ。反省とは違う。反省とは自分がしたことがまずかったと思い、もう二度としないぞと思う気持ちだ。罪悪感はわたしたちを非難し、何をしようとも決して赦(ゆる)されないぞとおどす。反省は力を与えてくれるが、罪悪感は麻痺させて動きがとれなくしてしまう。

これからすると、罪悪感を抱いたり抱かせたりすることは役に立たないけれど、反省させたり反省することは役立つことになります。

でも私は、「何かちょっと違うな」という気持ちがありました。


それは、言葉の定義です。

たしかに「神との対話」で書かれているように、罪悪感と反省という言葉を対比させて用いるときは、その説明のとおりだと思います。

反省というのは言葉のとおりに、自分の考えや行いを振り返って、どうすればもっと上手く行っただろう(=自分らしかっただろう)と、自分に尋ねてみることだからです。

しかし実際に私たちが遭遇する場面では、記事の最初に示したように、ある意味で恫喝的な言葉として使われます。

そこで言うところの「反省」とは、まさに「罪悪感」そのものを示しているのです。


「反省が足りない」ということを言う人は、相手が恐縮して罪悪感を抱いていないことに対して腹を立て、何とか罪悪感を抱かせようとしています。

「反省しなさい」と言って怒る人は、相手がうつむいて「ごめんなさい」と謝罪することを求めています。

以前、「なぜ謝罪を求めるのだろう?」という記事にも書いたように、それでは本当の意味で相手に反省させることはできません。

同じ「反省」という言葉を使っていても、その意味するところが違うように思うのです。

 

そんなことを考えていたとき、ふと思いついた言葉がありました。

それは「観察」です。

反省ではなく、観察した方が良いと思いついたのです。


観察とは、ある事象がどうして起こるのかを詳細に見ることです。ものごとの理屈を知ろうとすることです。

「神との対話」で言っている反省とは、まさに観察そのものではないでしょうか?

何かやったときに、上手く行かなかったのです。では、上手く行かせるにはどうすればよいか?

上手く行かなかった事象を、たんねんに調べてみることです。すでに起こったことを思い返しながら、そのときの心の動きを観察するのです。

 

実は最近、仕事上のことで非常に苛立つ(いらだつ)ことがありました。

私はもともと短気な性格だと思っていますが、そのときもある報告を見て、思わず声を発してしまったのです。

「何やってんだよー!こんなことしたら意味がないじゃないか!」

そしてそれを上司に報告し、どう対応するかを相談しました。

ところが、私が苛立つ理由を一所懸命に説明するのですが、どうも上司の反応が悪いのです。私の言葉が相手の心に届かない。そんな感じがします。

そうなると私は、さらに必死になって自分の理屈を説明しようとします。


そのときの私の気分は、正直に言って良くありません。

しかし、後で冷静になって考えてみたのです。

私は非常に苛立ったのに、上司はそうでもなかった。同じ事象を見ているはずなのに、その反応には大きな違いがあった。

だとしたら、私の中で感じていた苛立ちは、私固有の問題ではないだろうか?

そう言えば私は、同じようなケースで苛立つことがある気がする。そのケースを分析してみたら、苛立ちの原因がわかるのではないだろうか?

そんなことを考えてみたのです。


もしこのとき、反省することをしたら、どうなったでしょう?

反省するのは、私が苛立ったことに対する反省です。つまり、「苛立つこと」=「悪いこと」だから、それをやめるためにどうするかを考えるのです。

そうすると、多くの場合は相手のせいにします。自己正当化するのです。

そしてせいぜい、自分にも少しは非があったと認めるくらいで終わります。

これではまったく反省になっていません。ですから、同じような事象が起これば、また同じように反応するでしょう。


せいぜい、爆発しないように我慢する力が強くなる程度でしょうか。

これでは何も進歩していません。我慢するというのは、否定的な感情のエネルギーを解放せず、内に溜めておくだけのことですから。

これをストレスと呼びますが、ストレスが溜まればいつかは爆発します。

消えてなくなりはしないのです。解決を先延ばししているだけです。

 

そんなことがあったので私は、「反省」という言葉も使い方を誤らないようにしなければと思ったのです。

それならむしろ、反省ではなく観察と言った方が良いと思います。

たとえば子どもが何かいたずらをしたとき、以前なら「反省しなさい」と言ってしかる場合でも、「観察してみたらどう?」と言って解決方法を示してあげられます。

どうして上手くいかなかったのか?今度はどうすれば上手くいくのか?

その答を見つけない限り、何も解決しないし、何も進歩しないのですから。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:17 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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