最近、神渡良平さんや本田健さんの本など、数多くの本を読んでいます。
その中でよく出てくるのが、「出来事はすべて良いことだ」という考え方です。
斎藤一人さんなども、そう言われてますね。
この言葉を聞いた時、みなさんはどう思われるでしょうか?
「そんなことないよ、悪いことだって起こるでしょう。」
おそらくそんな感じだと思います。私も、そう考えていましたから。
この幸せ実践塾では、「起こる出来事はすべてニュートラル(中立)だ」と言っています。
ニュートラルとは、何の意味もないということです。
しかし人は、出来事に対して良いとか悪いとか意味を感じていますよね。それは、その人が意味をつけているからなのです。
だからそれを逆手に取って、自分で勝手に都合の良い意味をつけたら良いと言うのです。
どうせ勝手につけるのですから、それだったら自分の都合が良いようにつけた方が得するじゃありませんか。
そんな風に思っていたのですが、最近、私も少し考え方を変えました。
それは先ほど言ったように、「出来事はすべて良いことだ」という考え方について、検討しようと思ったからです。
たしかに、何の意味もなく出来事が起こるとしたら、それは偶然だということになってしまいます。
しかし私は一方で、「出来事は必然で無駄がない」ということも言っていました。
この整合性がとれないと感じるようになったのです。
もちろん、出来事に好き勝手に意味がつけられるということも、間違っているわけではありません。
出来事は単に結果なのですから、それにとらわれないようにするためには、都合の良い意味をつけた方が良いのです。
そうすることで私たちは、原因である自分の思考をコントロールできるのですから。
しかし、それとともに、やはり何らかの意図があって出来事が起きているとも言えるのです。
そのことを端的に表しているのが孟子の言葉です。
「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏(くうぼう)し、行ひ其の為すところに払乱(ふつらん)せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり。」
つまり、大きな使命を持っている人は、困難な状況を経験させられて、それを遂行するだけの能力を高めるように導かれる、ということなのです。
大病、貧乏、収監という3つの大難は、その人を痛めつけようとして起こる出来事ではなく、むしろ高めようとして起こる出来事なのだということになります。
しかし、そういう困難に出会った時に耐え切れず、たとえば自殺してしまった人はどうなるのでしょうか?
天の要請に応えられなかったとして、何か罰を受けるのでしょうか?
そんなことはないと思います。
なぜなら、天の使命というのは、その人が果たさなければならない義務ではないと思うからです。
人間が自由だということは、義務は存在しないということです。
自由とは、言葉通りに自由です。何をしても良いということです。ですから、何かをしなければならない(=義務)というものが存在するなら、それは自由の否定になってしまいます。
ですから、天が人に使命を与えるのは、義務であるはずがありません。それでは、せっかく与えた自由が台無しになってしまうからです。
ではなぜ、何らかの意図をもって、ある出来事を起こさせると言うのでしょうか?
そこで考えてみると、天(=生命)には意思があるということです。
それは、私たちが生きる目的でもあります。
その目的を私は、「自分らしさを体験すること」というように説明しました。
それはすなわち、天(=生命)自身が、自分を体験したがっている、そういう意志を持っているということなのです。
では天は、どんな体験をしたがっているのでしょうか?
たとえば不平不満を漏らしながら、誰かを恨むような体験をしたがっているでしょうか?
おそらく、そうではないと思います。なぜなら、そういう体験をしたとき、私たちは気持ち悪さを感じているからです。
喜びがないのです。幸せを感じないのです。それはつまり、「これは私じゃない」と、私の魂が言っているのです。
では、どんな困難な状況でも他の人を信じ、助け、愛するような体験はどうでしょう?
仮に自分にそういう体験がないとしても、そういうドラマや映画を見た時、どう感じるでしょうか?
感動し、涙をながすほど喜ぶのではありませんか?
それはすなわち、「これが私だ。ここに私がいる。」と、私の魂が言っているのです。
こういう自分自身の感情を感じてみると、天(=魂)が体験したがっているものとは、より大きな自分であり、偉大な自分であり、進化した自分であると言えると思います。
つまり、天(=魂)は成長したがっているし、成長を体験したがっていると言えるのです。
天がそういう意図を持っているとするなら、私たちをどういう出来事に導くでしょうか?
常に波風のない平穏な状況に置いておこうとするでしょうか?
そんなはずはありません。それでは、目的を達成できないからです。
したがって私たちは、自分の意思に反して、困難な出来事に遭遇することになります。
しかしそれは、私たちにとって悪いことではありません。なぜなら、私たちの魂が、自分を成長させるためにちょうど良い体験をさせようと意図して、そういう出来事に導いたのですから。
よく、「解決できない問題は起こらない」と言う人がいます。
それなども、上記のような背景があるとしたら、当然だと思えませんか?
本田健さんは、「人生を信頼しなさい」と言っています。
人生とは、すなわち私たちが遭遇する出来事であり、その出来事に導いている私たちの魂だと思います。
自分の魂が、自分にとって悪いことをするはずがない。
そう言葉にすると、当たり前のように聞こえますよね。
でも、困難な現実を目の前にした時、そう信じることができるでしょうか?そこが問題なのだと思うのです。
困難な現実に押しつぶされて、自殺しないまでも逃避したり、自暴自棄になってしまう人もいるでしょう。
けれども魂は、そういう私たちの意識を責めません。なぜなら、自由を与えているからです。
自由を与えるとは、愛するということです。魂とは、天とは、まったき愛なのです。
愛は愛するより他になく、恨みも嘆きもせずに、私たちの意識がいつか気づいて成長することを願っているのです。
出来事には、天(=魂)の意図があります。
けれども天は、その意図を私たち(=意識)に押し付けません。
ですから、そういう意味では、出来事に意味はないのです。私たち(=意識)は、私たちの自由意思として何らかの意味を出来事に与え、その出来事を経験し、自分に役立てれば良いのです。
出来事を利用して、自分自身を成長させたいですか?
もしそうなら、その出来事を与えられたことに感謝し、意図的に意味を与えることです。意識して、目覚めて生きることです。
逆に、もうしばらく眠っていたいのなら、成長したいと思わないのなら、これまで通りに出来事に反応し、怒ったり嘆いたり、感情が暴れるがままに放っておけば良いのです。
でもいつかは、そういう生き方に飽きるでしょう。「こんなのは嫌だ!」と叫ぶ日が来るでしょう。
天(=魂)は、ただその日を待っている。私はそう思うのです。
2013年07月02日
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