倫理とも呼ばれますが、善悪の価値観は、人それぞれで絶対的なものはありません。
これは善悪に限らず、すべての価値観はそうなのです。
そう言うと、それに反論したくなる人は多いでしょうね。私自身も、絶対的な善悪の基準があると考えていましたから。
しかし、「神との対話」シリーズでは、価値観はすべて相対的なもので、絶対的なものはないと言います。
したがって、「神がそれを求めている」と言って何かを押し付けようとすることは、すべて間違っていると言うのです。
これを読んだとき、最初は驚きました。
だって、神様が善悪の基準を示されないとしたら、いったい私たちは何を頼りにしたら良いのでしょう?
また、人それぞれだということになれば、それこそ価値観が混沌として、みんなが好き勝手なことをしてしまいます。
盗んでもOK、殺してもOKだなんて、そんなことは受け入れ難いです。
それに対して、こう質問することで答えています。
「あなたは、神が禁止しないなら、法律で罰せられないなら、人を殺すのか?」
この問いを見たとき、仏教にも同じような話があったことを思い出しました。歎異抄にある親鸞と、その弟子、唯円との会話です。
親鸞は唯円に、「千人殺してくれば浄土に往生できる。さあ、どうする?」と問いかけます。
唯円は真剣に考えたものの、「千人はおろか1人も殺せません。」と答えました。
このことは、絶対的な価値観だとか絶対者の命令が、行動の基準になっているのではない、ということを示しています。
それを因縁と言うこともできますが、要は、その人が持つ価値観が抵抗しているのです。
その人は、その人自身の、そのときの価値観で、自分の行動を決めています。
そして、そうすることが適当だったという理由を、あとからでも付け足して補強するのです。
たとえば、「人殺しは悪い」と言われます。聖書にあるモーセの十戒でも、「殺すことなかれ」と神が命じたことになっています。仏教でも、不殺生戒という戒めがあります。
それなら、「人殺しは悪い」というのは、倫理的に正しいと言えるでしょうか?絶対的に正しい価値観と言えるでしょうか?
※参考:「人を殺してもいいですか?」
こんな絶対的に正しいと思えるようなことでさえ、例外があります。
戦争では、敵兵をより多く殺した人が英雄となり、勲章をもらえます。悪いことをして表彰されるって、おかしくありませんか?
死刑執行人は、人を殺すことで給料をもらいます。悪いことをしたら給料がもらえるって、おかしくありませんか?
「そんなの一部の例外だよ。基本的には人殺しは悪いことなんだから。」
そう言いたいかもしれませんが、そうでしょうか?
かつて、仇討ちは正義であり、推奨されることでした。仇討ちですよ。仕返しですよ。それが正しいことだったのですよ。
このように、人々はそのときどきにおいて、自分なりの基準を作り上げています。それが価値観です。
それを例外と呼ぼうと何と呼ぼうと、自分なりの価値観を持っているという点では同じことです。
そして、周りの人々の多くが賛同するだろうなと勝手に想像する価値観を、常識と呼んでいるに過ぎないのです。
※参考:「世の中に絶対的な価値観はありません」
中世のヨーロッパでは、魔女狩りを行うことが正義でした。
現在でも、正当防衛による殺人は、罪に問われません。そればかりか日本など多くの国では、育てられないという理由での中絶さえOKです。さらに、妊娠検査でダウン症などが疑われる場合も、中絶が認められています。
自分が生き残るためには、より良い暮らしをするためには、他人を殺してもかまわない。いや、むしろ他人を殺すべきだ。
しかし、それを単に「人殺し」と呼ぶと罪悪感を覚えるので、別の呼び方をします。あるいは、胎児にはまだ魂が宿っていない(=完全な人間ではない)などと言ってみたりもします。
そう考える人が多いから、私たちの社会のルールになっているだけです。
そういう自分の価値観によって、絶対的な価値観とされるものをねじ曲げておきながら、絶対的な価値観があるという考えを捨てようとはしません。
だから矛盾が発生するし、その矛盾を認めようとしないから、ますます自分の本心を無視して、自分をごまかすようになるのです。
そうやって自分自身を見失ってしまうため、自分がわからなくなり、自分として生きることができなくなります。
自分として生きることができないから、苦しくなるのです。
もし、この世に絶対的な価値観だとか、倫理などというものはないことを認めたら、どうなるでしょうか?
まず、他の人が自分の価値観にしたがわなくても当然だ、と考えるようになるでしょう。
自分にとって正しいことが、他の人にとって正しいかどうかはわからないからです。
そうなったら、他の人が自分の価値観にしたがわないことを責めるのではなく、他の人がどんな価値観を持っているのかを知りたくなるでしょう。
お互いの価値観を比べてみながら、どっちの価値観が、より目的達成に役立つかを検討するでしょう。
そうなのです。価値観というものは、自分の目的を達成するために役立つものでなくてはなりません。
自分の目的とは、自分がどうありたいかという在り方です。その在り方にふさわしい現実です。
豊かでありたい。幸せでありたい。平和でありたい。さまざまな目的があるでしょう。
その在り方は、すぐに自分の心で決めることができますが、それが現実に現れる過程では、その在り方にふさわしい言葉や行動として表現されます。
そのとき、どう表現するのがふさわしいかを決めているのが、価値観という基準なのです。
したがって、もし絶対的な価値観が存在しないことを認めるなら、自分の価値観の根拠を探さなくてはならなくなるでしょう。
自分はなぜそう考えるのか?なぜ、それを善いと言い、あれを悪いと言うのか?
そうやって考えることによって、自分とは何かが見えてくるし、より自分らしく意識して生きることができるのです。
平和であるために、幸せであるために、人殺しは正しいでしょうか?
それを考えなくてはならないのです。
中絶は正しいことでしょうか?レイプされて妊娠したときは、どうなのでしょうか?
それを考え、自分の価値観を決めることで、自分とは何かを決めているのです。
自分とは異なる価値観を持つ人間が存在することが、社会の平和を乱しているのでしょうか?
もしそう考えるなら、相手も同じように考えても当然ですよね。
そして互いに殺し合うことになります。それが、平和である、ということなのでしょうか?
どこか、おかしくありませんか?何か違っていると思いませんか?
大阪から東京へ行きたいのに、博多行きの新幹線に乗っても到達できません。間違っているのです。
間違っていたと気づいたなら、乗り換えることが大切です。罪悪感を抱くことも、自己正当化することも、何の役にもたちません。
あなたの価値観は、あなたがそう在りたいと願う目的に適っているでしょうか?
そのことを意識的に考えることが大切です。
その前提として、常識だとか神の意思などというような絶対的な価値観が存在するという間違った信念を、見直すことが大事なのです。
他者によって決められていると思い込んでいるけど、実は自分が勝手にそう思い込むことで、他の選択肢を捨てていたことに気づくことが重要なのです。
2013年06月07日
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