2013年06月06日

なぜ謝罪を求めるのだろう?

「ごめんなさいって、ひとこと言ってくれたら、それで気が済むんだから。」

そう言って、他人に謝罪を求める人がいます。どうして、他人の謝罪を必要とするのでしょう?


そういう人は、相手が「ごめんなさい」と言っても、それだけではなかなか引き下がりません。

「言い方に心がこもってないんだよ。それじゃあ謝罪になってない。もっと本心から反省しないと。ほら手をついて、土下座して謝れ!」

このように、徹底的に罪悪感を抱かせないと気が済まないのです。あるいは、こういうことも言います。

「気持ちは形にしないとわからないだろう!?形だよ、形。いくら払うんだよ!?」

こうなるともう、立派な恐喝ですけどね。(笑)


けれど、これはいたるところで行われています。個人同士はもちろんのこと、集団同士でもそうです。

どうしてそんなに、他者に謝罪を求めるのでしょう?求める必要性があるのでしょう?そのことを、考えてみたことがありますか?


なおここでは、破損した物の弁償という話は置いておきます。これは謝罪があろうとなかろうと、関係がない話ですからね。

 

上記の例で示したように、謝罪を求めることの意味は2つあって、1つは相手に罪悪感を抱かせたいのです。

反省させたいというのは、ウソです。それはきれいごとに過ぎません。本心は、罪悪感を抱かせたいのです。

もし本当に反省させたいなら、強制的に謝罪させることは間違った方法ですから。その方法は有効ではないことが、はっきりしています。


本当に反省させるには、まずは相手の主張を受け入れることです。相手がしたことにもそれなりの理由があったと、認めてあげることが出発点になります。

その上で、他により良い選択肢がなかったかどうかを検討するのです。それによって、別の方法を選択したなら、もっと良い現実を導き出せたと気づいたとき、初めてのその人は反省するのです。


これは、とても重要なことですから、もう一度言います。

言葉や態度で恐怖感を与えたり、あるいは暴力で苦痛を与えたりしても、相手は反省しません。

反省というのは、もっと良い選択肢があったと認めることです。

ですから出発点は、必ず最初の選択肢にも理由があったと認めることなのです。



したがって、反省させたいというのが本音なら、謝罪を求めることは無駄な努力です。無意味な徒労です。

ですから本心は、反省させることではなく、罪悪感を抱かせたいからでしょう?、と言ったのです。

その自分の本心をごまかしていたら、いつまでたっても同じことを繰り返すでしょうね。

いつも相手に謝罪を求め、謝罪されないことに腹を立て、気分を害し続けるのです。そんな人生が望みですか?


では、どうして相手に罪悪感を持たせたいのでしょう。罪悪感とは、罰を与えて相手を苦しめることと同じです。

自分を傷つけたことへの代償として、同じだけ苦しめという復讐心です。

相手を自分以下にまで引きずり降ろし、相対的に優位に立つことによって、失った自分の価値を回復しようとする試みです。


その復讐心というのは、実は「もっと私の価値を認めて大事にしてよ!」という、愛を求める悲鳴でもあるのです。

ですから、「私が悪かった。あなたは悪くない。あなたの価値は毀損されてはならないものだった。あなたは重要な存在だった。」というように、相手に認めてもらいたいのです。

1回の謝罪で満足する人は、そもそも自分の価値が毀損されにくい人です。傷ついたと感じてもすぐに回復するので、執拗に謝罪を求める必要性を感じないのです。

 

謝罪を求めるということの2つ目の意味は、金銭を受け取ることです。

これにも実は2つの意味があって、1つは経済的な代償をもらうことでバランスを取ろうという考えです。

傷つけられたという事実は取り消せないので、その代わりに得したとという思いをさせてもらうことで、帳消しにしようとするのです。

慰謝料などというものは、まさにその典型ですね。


もう1つの意味は、先ほどの罪悪感を相手に抱かせることと同じで、相手が経済的に困窮し、苦しむことを望んでいるのです。

つまり復讐心です。

 

このように分析できますが、謝罪を求めることの主たる理由は、やはり復讐心だと思います。

なぜなら、得した思いをさせてもらってバランスをとるというのも、そもそもが傷つけられたことを消してもらいたいという思いがあったからです。

傷つけられたことを消してもらいたいと感じるのは、それは自分の力では回復できないと感じているからです。

自分で回復できるなら、わざわざ相手の謝罪という難しいことをやろうとしなくても、さっさと自分で回復してしまえば良いのですから。


つまり、謝罪を求める心理とは、傷ついた自分の心を自分で回復することができないと決め、傷つけた(と自分が思っている)相手によって回復させるように強要する思いなのです。

それはいわゆる復讐心であり、復讐心とは、相手が自分と同じかそれ以上に傷つくことを求め、それによって相手を自分と同じかそれ以下の無価値な存在にまで引きずり降ろし、相対的に自分の価値を引き上げて満足感を得たい衝動なのです。


このように、完全な他者依存であるために、謝罪されてもだいたいにおいて完全な満足に達することがありません。

したがって、いくら相手が謝罪しても、「まだ足りない」と言って、もっと謝罪することを求めるのです。


これにはきりがありません。

こういうもっと謝罪をと求める相手に対して、さらに謝罪を続けることは、相手を助けることになりません。

なぜなら、その人の望みは相手が自分以上に不幸になることですから。そうなって初めて、復讐心が満たされるのです。

でもそれは、罪悪感を抱いて自分が不幸になることです。

相手を不幸にすることで自分が幸せになれるという思いは間違っていますから、復讐を果たした相手は、最初こそ溜飲を下げるでしょうけど、そのうちに居心地が悪くなります。

その居心地の悪さを、今度は復讐を正当化することで救済しようとします。

「だってあいつが悪いんだもん。悪いやつは不幸になって当然だよ。」

しかしこれは、愛の対極です。本来の自分は愛ですから、本来の自分を偽ることになります。

そうやって、自分をごまかす旅を延々と続けることになるため、いつまでたっても幸せになれないのです。


必要なのは謝罪することではなく、そっとしておいてあげることだと思います。つまり解放してあげることです。

謝罪を続けたところで、その人はずっとその傷つけられた出来事を心の中で反芻し、いつまでも恨み続けるという苦しみを背負わなければなりません。

それよりもその人との関係を絶ち、見えなくなることで、その人が恨み続ける要因を取り除いてあげることです。


もちろんその前に、本当に悪かったとか間違っていたと気づいた部分があったなら、それは謝罪することが重要ですよ。

でも、謝罪というのは1回すれば充分です。それ以上は蛇足です。

何度も謝罪を繰り返すことで罪悪感を抱くようになったら、自分が幸せにはなれませんから。それでは意味がありません。

不安と罪悪感は、人にとって最大の敵なのです。


その人との関係を薄め、解放してあげて、ひそかにその人の幸せを祈ってあげることです。

謝罪を求める人は、苦しんでいるのです。助けてくれと訴えているのです。

ですから、苦しみから解放されるように、幸せになるように、祈ってあげるのです。そして、影で応援してあげることです。


逆に、自分が傷ついたと感じて相手に謝罪を求めたくなったら、ここに書いてあることを思い出してください。

相手に依存していても、その苦しみは消えません。

苦しみを消すには、相手を解放することです。許すことです。謝罪などいらないと言ってあげることです。

私は傷つかないと宣言しましょう。事実、そうなのですから。

その宣言によって、あなたは自分が傷ついていないことに気づくでしょう。そして、より大きな愛として、相手を包むことができるのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:11 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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