ネットでニュースを見ていたら、イタリアン料理店で入店を拒否された「五体不満足」の乙武洋匡さんが、Twitterで店を批判したということが話題になっていました。
乙武さんが店名をあげて批判したため、お店に対して批判する多くのツイートが流されただけでなく、お店に批判の電話をする人も大勢いたとか。
それに対して、逆に乙武さんを非難する声も出てきました。障害者は弱者と言うけれど、乙武さんほどの有名人になれば、その言論で相手に多大な打撃を与えることもできるわけで、店名をあげての批判は強者による弱者叩きだと。
そこで乙武さんは、ブログに「イタリアン入店拒否について」と題して書くことで、店名をあげて批判することになった経緯を説明しています。
私もそのブログ記事を読みましたが、第一印象は、「乙武さんって、本当に正直な方だなあ。」というものでした。
店名をあげてツイートすることになったのには理由があるとしながらも、そうしてしまったことを「あきらかに正常な判断能力を失っていた」として、「深く恥じ入る」と反省されています。
そして、その行為が社会的正義からというより、「普段から応援してくださっているみなさんに泣きつきたかったのだ。愚痴りたかったのだ。そうでもしなければ、とてもやりきれなかったのだ。」と、自らの弱さをさらけ出しておられます。
乙武さんが正直に、あの日の出来事を語ってくださったお陰で、どういうやり取りがあったのかが手に取るようにわかりました。
そしてこのことは、私たちが抱える多くの問題を考える上で、とても役に立つ事例だと私は思ったのです。
それでFacebookページ「幸せ実践塾」にも、そのことを書きました。
このブログでは、そのことをさらに掘り下げて書きたいと思います。
具体的にどのようなことがあったかは、まず乙武さんのブログを読まれてくださいね。
その方がわかりやすいと思います。
その上で、その状況について以下に解説しますので、こちらをご覧ください。
まず、店は店主とホールスタッフの2名で、忙しそうに営業していました。
乙武さんは、誰か店の人に手伝ってもらって店まで運んでもらうしか、入店する方法がなかったのです。
ホールスタッフは、手が空いたら手伝いに行くと言いましたが、外で10分待っても、まだ来てくれませんでした。
それで乙武さんの友人(女性)は、再び店まで行ったのです。
そのとき、乙武さんの友人に気づいたホールスタッフが手伝いに行こうとしたところ、店主が出てきて、「車いすのお客様は、事前にご連絡いただかないと対応できません」と言ったのでした。
このときの店主の気持ちを想像してみてください。
おそらく、最初に乙武さんの友人がホールスタッフに手伝ってくれと言った後、その話を聞いてこんなことを思ったでしょう。
「この忙しい時に入るのを手伝ってくれだなんて、やめてくれよ。迷惑なんだよなあ。第一、車椅子で来るなら、予約の時からそう言っておくべきじゃないか。」
店主は、自分が被害者だと考えたのです。
迷惑な客によって、無理難題を押し付けられようとしているのですから。
しかも困ったことに、相手は障害者です。下手をすれば、こちらが弱い者いじめをしていると思われかねません。
「まったく迷惑な客だなあ。なんでこっちがそんなことまで気を使わなきゃならないんだよ。」
突然現れた迷惑な客によって、仕事が妨げられるばかりでなく、精神的にも負担を強いられた。そう考えたのでしょう。
だから、ここは何としてでも断ろうと決めたのでしょうね。
ところが、乙武さんの友人は、ホールスタッフが手伝ってくれると言ったのだから、当然、入店できると考えていました。
そこに突然、邪魔者(店主)が現れて、まるで自分たちが迷惑な存在かのように言われ、排除しようとするような対応をされたのです。
それで「ひどくショックを受け」、「車いすの人が来たら、迷惑ってことですか?」とけんか腰の詰問になったのでしょう。
そのときの乙武さんの友人の立場に立てば、その気持ちはよくわかります。
けれど、痛いところをつかれた店主は、さらに悔しく感じたでしょう。
「ちくしょう、反論しづらい理由をかざして、まだ無理難題を押し付けようとするのか!?わがままもいい加減にしろよ!」
そんなふうに感じたことでしょう。
正直に言えば、迷惑だったのです。そう感じていたはずです。歓迎できない客だと、どれだけ言ってやりたかったことか。
でも、その本音を言うことは、自分の首を絞めることになります。
その本音と建前の間に落ち込むことで、自ら苦しんだのです。
ところが、そうした対応に耐えかねた乙武さんの友人は、怒って、泣きながら店の外に出ました。
そしてこのことが店主を、さらに追い込みました。
「なんだか自分が、客を困らせて泣かせてしまった悪者みたいじゃないか。」
乙武さんの友人は、おそらくそのとおりだと感じたのでしょう。
しかし店主にとっては、そういうことを他の客に見せつけられることは、営業妨害も甚だしいことだと感じられたはずです。
それで後を追いかけ、きっちりと話をつけようと思ったのではないでしょうか?
そして言ったのです。
店はもともと、車椅子に対応できるようになっていないのだと。そして、車椅子で来るなら、予約時にそう告げることが常識ではないかと。
それはつまり、店主が自分の正当性を主張したのです。
「私が悪いんじゃないよ。悪いのはあんたらだよ。そこをちゃんと理解してよね。」
そんな気持ちがあったから、常識がない客だと小バカにしたような対応になったのでしょう。
しかし今度は、乙武さんがその対応に反応しました。まさに反応してしまったのです。
「店に入れないのは仕方ないとしても、だからと言って店の人が客をバカにしていいのか?」
たてまえはそうですが、本音は違います。
本音は、単に自分が傷ついたのです。これまで、どこへ行っても丁寧に扱われたのに、初めてバカにされた。だから、自分の価値が損なわれる気がして、その不安に耐えられず、心が悲鳴をあげたのです。
「じゃあ、それが本当に常識なのか、広く世に問うてみましょうよ」
「ええ、どうぞ」
こうして、売り言葉に買い言葉で、不毛な戦いになってしまったのです。
どちらも本当は、自分を守ろうとしただけなのです。
自分が傷つくことを怖れ、その不安から、必死で防御しようとしたのです。
すべての攻撃は、その人にとってみれば防御です。
そのことを理解しない限り、人に対する人の闘争は終わらないでしょう。
乙武さんは、自分にも落ち度があったと認めながら、なお、相手の落ち度を責めています。
「僕にだって、それくらいの理性と常識はあるつもりだ。
相手が、理性と常識あるコミュニケーションを図ってくださるなら。」
つまり、自分に非があったことは認めるが、それ以上に、相手に非があると言いたいのです。
私たちは、どうしてもこの罠に落ち込んでしまいます。私もそうでした。
「他にスピード違反している車はいっぱいいるじゃない。どうして私の車だけ取り締まるの?不公平じゃないか!?」
自分が違反したことを棚に上げ、他を責めることで、自分の正当性を認めてもらいたかったのです。
しかし乙武さんは、心の奥深くで、それでも癒されない何かを感じていました。
だから、「だが、あの日の僕は、あきらかに正常な判断能力を失っていた」と正直に告白し、「もし、僕があのとき冷静さを保っていられたなら」として、もっと自分や社会を高める方向に役立てることができたと想像するのです。
そして、こんなふうにも想像しています。
「もしかしたら、あの店主も、ただ不器用で、人づきあいがうまくないだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、もう一度、あの店に行って、カウンター席にすわって、「シェフ、この料理おいしいですね」なんて会話を交わしながら、舌鼓を打てたらいい。そこでふたりで写真を取って、Twitterでアップでもしたら、今回の幕引きとしては美しいのかもしれない。」
おそらく、これが乙武さんの本心でしょう。店主と仲良くなって、心の中のしこりを取り去ってしまいたいのです。
しかし、本当は仲直りすべきだと本心でわかっているのに、それでもそれができない自分がいることにも気づいています。
ですから、「そんな未熟な自分が、いまはただ腹立たしい。まだまだ、僕は人間が小さいのだと痛感させられる。」と、また正直な思いを吐露(とろ)されているのです。
乙武さんは、誰かに助けてもらいたがっているのでしょうね。店主との仲をとりもってもらいたいのです。
だから最後の追伸に、こんなことを書いたのです。
「P.S.でも、やっぱり、店主がお許しくださるのなら、いつの日か再訪してみたいな。だって、お店の料理、本当においしそうだったから。」
乙武さんの本心は、自分がどうありたいかをはっきりと理解しています。
でも、それができない小さな自分があると思っています。その正体は不安です。
自分を傷つけた相手を許す(認める)ということは、すなわち、自分は傷つけられて当然の無価値な人間だと認めることになる、と感じています。
ですから、それができないのです。
でも、その考え方が間違っているとしたら・・・。
乙武さんが未熟なわけでも、人間が小さいわけでもありません。
ただ単に、思い違いをしているだけなのです。
人は傷つかない。誰も他人を傷つけることはできない。
この事実を忘れているのです。
その事実を忘れ、自分は傷ついたと想像しただけです。
なぜ傷つくなどと想像できたのか?
それは、自分に対する絶対的な自信を持っていなかったからです。誰が何と言おうと、失われることのない価値があると、理解していなかったからです。
だから、他人の言動で容易にその価値が毀損(きそん)され、傷つくと想像したのです。そんなことは、本当は不可能なのに。
よくよく見れば、店主の目の奥に恐怖を見てとることができたでしょう。
店主もまた、乙武さんと同様に、傷つきやすいかわいそうな人だったのです。
恐怖に震える犬が尻尾を股間に挟みながらも、盛んに吠え立てることがあります。
攻撃は防御なのです。傷つく怖れ(不安)から守ろうとした反応に過ぎないのです。
もし、そういう犬がいたら、攻撃し返すのですか?
それとも、「大丈夫、何を恐れているの?心配しなくていいよ。私は何もしないから。」と言って、優しい眼差しで見つめてあげるのですか?
相手を許し、認めたとしても、相手はすぐに心を開かないかもしれません。
それは、相手自身が決めることですから。
けれども少なくとも自分は、心穏やかでいられたはずです。
今回の乙武さんの事例は、あらゆる争いに通じるものです。
両者が共に、自分こそが正義だと考えています。
そして、傷つくことへの怖れから自分を守ろうとして、必死に相手を攻撃したのです。
またこの事例が示すように、いくら相手を攻撃しても、心が休まらないことも事実です。
心が休まる方法は、ただ1つです。
相手を許し、自分も許し、相手と仲直りすること。
貴重な事例をさらしてくださった、乙武さんに感謝します。
きっと多くの人が、この事例に学んだことでしょう。
乙武さんがどう思うかはわかりませんが、間違いなく彼は、私たちに大きな贈り物をしてくださったのです。
2013年05月22日
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