昨日の記事で、男女平等と男尊女卑のどちらが正しいのか、ということを書きました。
ここでいう「正しい」とは、絶対的な真理だという意味ではありません。
自分の価値観において、正しいかどうかです。つまり、自分の真実です。
そしてこの正しさは、何の根拠もありませんし、根拠を必要としません。
ただ、自分がそう感じるものです。自然とそう感じてしまうのです。
そういった自分の真実を知り、その真実に忠実に生きることが、自分らしい生き方になります。
ただそのとき、注意することが2つあります。
1つは、他人の価値観を自分の価値観だと思い込んでいるのでは、という注意です。
そういう人は、「常識だよ」とか「普通はこうする」といった、自分以外のものに権威を求めます。
西欧人なら、「聖書にそう書いてある」と、聖典を根拠にするのでしょうね。あるいは、「宗教指導者がそう言っている」などと言うかもしれません。
そうやって他人の価値観に合わせようとすると、だんだんと恨みがたまります。
なぜなら人の本質は自由であり、自分らしく生きたいと思っているからです。
それが制限されるのですから、何に対してかわからないけど、恨みがたまるのです。それをストレスと呼ぶ人もいます。
「良い子症候群」などと呼ばれますが、反抗期のない、親に従順な良い子は、親の愛を得たいがために、自分自身を偽って生きています。
ですからそれがいつか爆発して、非行に走ったり、逆に自分を殺してしまう衝動になったりするのです。
もう1つの注意は、過去の自分の真実を絶対視していないか、というものです。
この世はすべて変化します。変化しないものは一切ありません。諸行無常と言われる所以(ゆえん)です。
その「すべて」の中には、当然、自分自身も含まれます。
私たちは、日々変化し、常に成長を続けているのです。
昨日のあなたは、今日のあなたではありません。
ですから、昨日まで自分の真実だと言っていたことに、いつまでもとらわれていてはいけないのです。
今日感じる真実が、昨日のそれではないと思ったときは、だいたんに変えるべきです。
この2つのことを注意していないと、本当の自分の真実を明らかにするチャンスを逃してしまいます。
そのチャンスを逃せば、自分らしく生きることができないでしょう。
自分らしく生きていない時、あなたの魂は感情という言葉で、あなた自身に知らせてくれます。
「なんだか気分がむしゃくしゃする。」「気分が冴えないなあ。」「どうも、しっくりしない。」など。
幸せな生き方をしようとしていても、そう感じる時があります。
そのときは、もう一度、自分自身を振り返ってみることです。
「何かにとらわれているのではないか?」
ブッダは、教えにも戒律にもとらわれるな、と言いました。
執着しないとは、言葉通りに、あらゆるものの必要性を排除することです。
その必要性を排除する必要性さえも、排除することです。
そのようにして、完全に自由な状態に自分を置くことで、本当の自分の進むべき道が見えてきます。
人は本来、誰からも、何も、教わる必要性はありません。
自分が自分の心の声に耳を傾ければ、すべて聞こえてくることです。
ときには答が、誰かの言葉で語られたり、何かの書物に書かれていたりするかもしれません。
けれど、その言葉の中に真実を発見するのは、その人自身の心です。
自分の心が感応したから、それが真実だと感じるのです。
私たちはすでに、答を知っているのです。
それを知らないふりをして生きているだけで、本当は知っています。
ですから、本当は知っているということを知れば、あとはそれに気づくだけなのです。
2013年05月21日
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