「男性と女性は、どっちが優れているのでしょうか?」
などと質問すると、日本ではきっと、時代遅れのような目で見られるでしょうね。
外国ではよくわかりませんが、多くの国で日本と同じような反応があると思います。
しかし、そうやって男女平等が当然だと言う人は、本当にそう考えているでしょうか?
世界の人々に絶大な影響を与えている組織的な宗教では、おそらくそのほとんどが、男尊女卑を説いています。
キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教など。
特に旧約聖書を教典とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、神が男性を創り、その男性の一部から女性が作られたのだから、女性は男性に仕えるべきだとしています。
その教えに従って、女性は性的な快楽を得られないように陰部を切除するなんてしきたりも、まだ一部の地域で残っています。
女性の性は、男性に快楽を与えるためのものだと考えられているからです。
これらの宗教では、聖典は無謬(むびゅう)だとして、誤りがないというところに信仰の根拠を置いています。
ですから言葉でなんと言おうと、人々は心のより深い信念の部分で、男尊女卑を信じているのです。
その他の宗教がどうかと言うと、日本にも影響があった儒教は、明らかに男尊女卑ですよね。
そして仏教もまたそうです。
現代は尼僧も認められていますが、作られた当初の仏教では、女性が僧になることは考えられていませんでした。
教典の中にも明確に、女性は男性より劣っていて、女性が何回も生まれ変わることによって、より上位のレベルの男性になるのだと示されています。
タイでは女性は不浄だからという理由で、僧侶に触れることは許されません。
こういった感じですから、人々の中に男尊女卑の信念が植え付けられていても、不思議ではありません。
男尊女卑を否定することは、それはすなわち宗教を否定することであり、救われるという信仰を捨てることを意味するのですから。
しかし、人はその深いところで、その誤りに気づいています。
ですから現代では、多くの人が男女平等こそが正しい姿だと考えるようになったのです。
私も子どものころ、不思議に思ったことがありました。
男尊女卑が当然の昔の田舎ですから、料理は女たちの仕事です。
親戚の人が訪ねてきたときも、男たちは居間で座って雑談をし、女たちは台所で料理をします。
料理ができると、できたものから居間に運ばれ、男たちはすぐにそれを食べます。
けれども、支度がすべて終わっていない女たちは、まだ台所にいて料理を続けています。
子どもたちは男たちと一緒に、先に食べなさいと言われます。
「どうして一緒に食べないんだろう?」
私は、母が大好きでした。
だから、大好きな母と一緒に食事をしたかった。
それなのにどうして、母は一緒に来て食べてくれないのか?
「これは何かおかしい。」
子ども心に、そう感じたのです。
役割の分担があることは、たしかなことです。
いくら頑張っても、男には子どもを産めませんし、母乳を与えることもできませんから。
しかし、役割を分担することと、どっちが優れているかということと、同じではないことは明らかです。
ただ違うだけなのに、そこに優劣をつけたがるのは、自分に自信がないからです。
社会的な正義であるかのように、神が決めた絶対的な倫理であるかのように、他に権威をもとめることで、自分の自信のなさを覆い隠し、不安が見えないように取り繕っているだけです。
何の根拠もなかったのに、ただ権力を握りたかった男性が、自分たちが優位になるような状態を作るために、都合の良い理由を作っただけなのです。
男女平等の価値観が正しいことだと受け入れることは、実はとても大きな意味があります。
それは、組織的な宗教に対して、その無謬性に疑問を呈することになるからです。
無謬だと思われる教典の中に、神の教えの中に、時代に合わないことがある。
もしこの考え方が浸透するなら、宗教は飛躍的に進化することでしょう。
自分の教えに従わない人間は殺してもかまわない。それどころか、積極的に殺せと神は言った。
それを根拠に、どれほど多くの戦争が行われ、どれほど多くの人が殺されてきたでしょうか。
「だって聖典にそう書いてあるんだもの。」「宗教的指導者が、それが神の教えだと言うんだから。」
そういう言い訳が、通用しなくなるでしょう。
たしかに教典に、そういうことが書いてあるかもしれない。
けれども、同じように書かれている男尊女卑を、あなたの心は否定したのではないのですか?
そうだとしたら同じように、あなたの心は、「殺せ!」と命じる神の声を、「それはウソだ!」と否定しているのではないのですか?
真実は、自分の心の中にあります。
あなた自身が自分の心の中の深いところに入っていって得られたもの、それが真実です。
神の声を聞いたという者を信じてはいけません。どんな聖典も、そのまま鵜呑みにしてはダメです。
なぜなら、そうすることで自分を蔑(ないがし)ろにし、自分の中の真実に気づけなくなるからです。
その経験によって、自分はどう感じたのか?
それを大切にすべきなのです。
あなたは、他の誰と比べても劣らないほど、素晴らしい存在です。
私たちの間に、優劣などというものは存在しません。
なぜなら私たちは、「ひとつのもの」なのですから。
「ひとつのもの」なのに、優劣が存在するはずがないではありませんか。
ですから自信を持って、自分の心の声を聞くべきです。
あなたの心が「これが正しい」と思うもの、それこそが、あなたの真実なのです。
2013年05月20日
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