Facebookのモエル株式会社さんのページに、素敵な言葉が紹介されていました。
「あなたの命 何に使う?」
「みとめの3原則」を書かれた木戸一敏さんが書かれたしおりだそうです。
私のFacebookページ「幸せ実践塾」でも、シェアさせていただきました。
使命というのは、命を使うと書きます。
自分の命を使ってやることが使命なのだ、ということです。
もし、あなたの寿命があと1年だったら、あなたは今日、何をしますか?
もし半年だったら?3ヶ月だったら?1ヶ月だったら?・・・
そう考えていったとき、それでも変わらずに今日これをやろうというものがあったら、それがあなたの使命です。
良く死ぬということは、良く生きるということ。
そんな言葉を聞いたことがありますが、まさにそうですね。私たちは、死を意識することによって、生を輝かせることができます。
死までの短い時間を意識した時、その生の大切さを実感し、無駄にしたくない、有効に使いたいと思うのです。
最初は、どうせ死ぬのだからと、享楽的に残りの人生を過ごそうと考えるかもしれません。
けれども、それでは虚しい、と感じるようになります。
「自分はいったい、何のために生まれたのか?」
そう自分自身に問い、自分の内側深くに入っていくことで、自分の使命を見つけ出すのです。
「もし、半年後に死ぬとわかったなら、私は何をするのだろう?」
木戸さんが書かれた言葉を読んで、私も自問自答しました。
もし半年後に死ぬなら、生活のためのお金が必要だとか、そんなことはもう考えないでしょうね。
儲かるとか、儲からないとか、そんなことはどうでもいい。
それよりもっと重要で、「私がやらなければ誰がやるのか?」と思えることをやるでしょう。
それは、今やっているようにブログを書いたり、メルマガを書いたりすること。
そして、私が普段言っているような生き方をして、私自身をメッセージにすることです。
そうすることが、私らしい生き方だなあと思うのです。
たしかに、私が言っていることは、かなり風変わりだと思います。
私の考え方は、多くの人の言う「常識」に反することでしょう。
けれども私は、それを理由に私の考え方を捨てる気持ちにはなれません。
なぜなら、これが真実だと、私自身が確信しているからです。
今までの考え方では、人々は幸せを求めながら、そうはなれなかった。
常に出来事に翻弄され、悪いことが起きると抵抗してさらに傷つくか、せいぜい諦めることで、出来事をなかったことにしようと考えるだけでした。
抑圧された悲しみや憎しみ、そして怒りは、表面上はその炎が消えたように見えても、灰の下でくすぶる炭火のように、内部では赤々と燃えています。
その赤い火に焼かれて、人々は苦しみ続けるのです。
多くの宗教が、その根源的な苦悩に立ち向かいました。
けれども、組織的な宗教はどれも、その試みに成功しませんでした。1000年も2000年も費やしながら、目的を達成していないのです。
そして成功しなかったばかりか、それまで以上に人々に苦痛を与えるようになっています。
なぜ、本来は人々を幸せにするためにある宗教が、憎しみを助長し、いがみ合いを推し進め、対立と暴力の応酬を推奨するのでしょう?
明らかにおかしいのです。何かが間違っているのです。
それがわかっているなら、他の方法を模索すべきではありませんか。
今までのやり方では、何かが間違っているのです。今までの考え方では、何かが足りないのです。
私は、それを見つけました。それは、大昔から大勢の人が語ってきたことでした。
「なんだ、それだったら知っているよ。」
そういう内容でしたが、多くの人はそれを真実だと信じず、そのように生きて来なかったのです。
まるで目的地までの道順を聞きながら、それに従わずに迷子になっているようなものです。
なぜ、信じられないのでしょうか?どうして、それを選択しないのでしょうか?
もし、その理由が明らかになれば、人々は選択するようになるかもしれません。
そして誰かがその道順で目的地に到達して見せれば、「ひょっとしたらこれが真実かもしれない」と人々は思い、自分の考えを変えるかもしれません。
そうすれば大勢の人が、この世にあって苦しみから逃れ、平安と幸せの中で生きることができるでしょう。
では、それを誰がやるのか?
ブッダは、それをやりました。イエスも、それをやりました。ガンジーも、マザー・テレサも、それをやりました。
他にも大勢の人が、そのことを自らの使命として生きたのです。そして今も、そういう使命に生きている大勢の人がいます。
ですから、私もまた、そういう人たちの中の1人になりたいと思います。
仏教では、終末に阿弥陀仏がやってきて、人々を救うと言います。
もしそうなら、現代に生きて人々の救いを使命として生きる人は、阿弥陀仏なのかもしれません。
そういう表現を使うなら、私の使命も、阿弥陀仏として生きることと言えるでしょう。
ただ、別に偉大な人になるとか、宗教的指導者になるという意味ではありません。いえ、絶対にそうはなりません。
どこにでもいる平凡なおじさんとして、いや、ちょっと風変わりなおじさんとして、生きるつもりです。
なぜなら、特別な存在になってしまえば祭り上げられるだけで、人々からは離れてしまうからです。
「お前みたいな人間が偉そうなことを言うなよ。」と言われるような愚かな存在でありながら(実際そうですが・・・)、道を説く人になろうと思うのです。
なんとなく、宮沢賢治氏の生き方に似ているかもしれませんね。
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2013年05月17日
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