橋下大阪市長の発言が、また問題視されていますね。
戦時下の慰安婦制度を容認し、在日米軍にも風俗の利用を促しているなどと、あちこちから批判されているようです。
中には、「当たり前のことを言っている」という、橋下市長を擁護する発言もあるようです。
この橋下市長の発言内容に対する私の意見は、ここでは控えさせていただきます。
もし機会があれば、メルマガ「SJ通信」の方で書きますので、そちらをご購読ください。
ここでは、この発言と反応の中に示されていることについて、別の視点から考えてみたいと思います。
橋下市長の発言を擁護するわけではありませんが、発言内容と批判内容があまりにちぐはぐでかみ合わないので、違和感を覚えたからです。
まず橋下市長の発言を毎日新聞の14日の報道から見てみると、以下のようになっています。
「日本維新の会の橋下徹共同代表は14日、第二次世界大戦中の旧日本軍による従軍慰安婦制度について、自らのツイッターで「当時の世界各国の軍が、軍人の性的欲求の解消策を講じていた」と述べ、当時は必要だったとの認識を改めて示した。一方で、「今の視点で慰安婦が良いか悪いかと言われれば、良いことだとは言えない」とも書き込んだ。」
つまり「事実」として、戦時下に兵士の士気を上げるために、性欲を満たすために何らかの措置をとったのは、日本だけではない、と言っています。
ここは重要なところなのですが、大昔は、略奪が当たり前でした。つまり現地調達です。女性は戦利品だったのです。
それが「事実」だったし、それが「価値観」においても正しいことだったのです。
たとえば十字軍の遠征がそうです。兵士は、略奪富豪になることが1つの夢だったのです。
これは歴史的な「事実」ですし、当時の「価値観」としては正当なものでした。
そして当時の「価値観」として正当だったということも、歴史的な「事実」です。
しかし、あまりに略奪がひどいと現地民を手なづけることができません。
それでは占領政策を円滑に進める目的に合致しないので、略奪やレイプなどを軍律で禁止するようになりました。
もちろん理由はそれだけではなく、人道的な観点もあったでしょう。
因みに旧日本軍は軍律が厳しく、略奪などがほとんどないとして、紳士の国イギリスからも称賛され、日英同盟を結ぶきっかけになったと言われます。
それもまた、歴史的な事実として知っておくべきことでしょう。
けれども、どれだけ軍律を厳しくしても、兵士の性欲が消えてなくなるわけではありません。
現地民を好き勝手に陵辱(りょうじょく)するような事態は避けなければなりませんから、窮余の策として民間の風俗業者を手配したりしたのです。
歴史的な事実という観点で見るなら、手当たり次第に陵辱することが当然の時代から進歩し、性サービスを提供してもらう代わりに金品を与えるという、売買春によって性欲を満たすようになりました。
ですから、歴史的な「事実」という点で、橋下市長の発言が間違っているわけではないと思われます。
5月15日付けの読売新聞「慰安婦発言 広がる波紋」には、「Q&A従軍慰安婦問題とは」と題して、事実について解説してあります。
それによると、戦時下で行なっていた各国の慰安婦制度について、「慰安婦と戦場の性」(新潮選書/秦郁彦著)が、@「自由恋愛」型(米英)、A慰安所型(日独)、Bレイプ型(ソ連)に分類し、その実情を説明している、と紹介しています。
次に「価値観」の視点ですが、橋下市長は、第二次世界大戦当時のこととして、当時はそういう価値観だったと言っています。
そしてさらに、現在の価値観とは合わないということも。
これに対して、自民党の野田聖子総務会長は、次のように批判したそうです。
「論外だ。男性の矜持(きょうじ)はどこに行ったのか。コメントしようがない発言だ。」(産経新聞5月14日配信)
民主党の辻元清美衆議院議員も、映画「戦争と一人の女」のトークイベントに出席したときに、次のようにコメントしたそうです。
「国会は大騒ぎです。私自身、橋下さんの発言には気が滅入った。慰安婦を認める認めない以前に、戦争を認めてはいけない。橋下さんに最大の反戦映画であるこの映画を観に来いと言いたい。」(シネマトゥデイ5月14日配信)
まあ政治家の発言は他の意図もあるでしょうから、これだけ捉えても仕方ないとは思いますが、どちらも論点がずれています。
まず橋下市長の発言の中に、戦争容認とか戦争賛美の内容は含まれていないし、現在の価値観で慰安婦が必要だなどという内容も含まれていません。
むしろ、今の価値観からすれば慰安婦は問題だという発言内容です。
ですからこれは、単に自分の政党をアピールする目的か、国際的な問題になることを怖れての火消しであろうと思われます。
また上田清司埼玉県知事は、次のように反論したそうです。
「慰安婦は必要ではなかった。人間の性欲を処理する機関がないとだめだという考えにはくみしない。」
そして軍人相手の売春がビジネスとなった歴史的事実にも触れ、「人類はそういうことを認めていない」とも。(産経新聞5月15日配信)
これなども、論点がかみ合わない最たる例ですね。
軍に性欲を処理する機能が必要ないという持論は理解しますが、それは歴史が証明していません。
歴史的な事実は、軍律がなければ略奪・陵辱のし放題だったということです。
それを防ぐ目的で軍律を定め、その不満のはけ口として、風俗産業を利用したのです。
それを良しとするかどうかはそれぞれの人の価値観であって、歴史的な事実とは何の関係もありません。
それに「人類はそういうことを認めていない」と言うなら、どうして歴史はそうだったのでしょうか?
人類が認めないのなら、いったい誰が認めたのでしょう?
間違いなく、当時の人々の価値観が、それを認めたのです。その過去の価値観を、現在の価値観で批判しているだけです。
また、その後で橋下市長が在日米軍に、沖縄の風俗を利用することを勧めています。
「日本の現状からすれば、貧困からそこ(風俗店)で働かざるを得ないという女性はほぼ皆無。皆自由意思だ。だから積極活用すれば良い。」
「アメリカはずるい。一貫して、公娼(こうしょう)制度を否定する。しかし米軍基地の周囲で風俗業が盛んだったことも歴史の事実。」(毎日新聞5月14日配信)
つまり、法律で認められた風俗を利用することは、誰かを虐待しているとも思えないので、人権上も問題がないという考えです。
そして、アメリカは軍律で買春を禁止しているそうなのですが、実態は、軍基地の周辺で風俗産業が盛んになっていることを指摘しています。
まず米軍基地の周辺で風俗産業が盛んだという指摘は、事実だと思います。
たとえば、ベトナム戦争の中継基地が置かれたバンコクでは、アメリカ軍のための施設としてそういう一体が作られ、それが現在も残っています。
もちろん軍が作ったわけではないのでしょうから、従軍慰安婦とは呼ばれません。
けれどもそう呼ばれないだけで、実態はアメリカ軍のための風俗施設です。
そういう事実を、橋下市長は指摘しています。
これに対する批判として、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の桑江テル子理事は、こう言って憤慨したそうです。
「女性を性の道具として都合よく利用することだけを考えている。弁護士なのに女性の人権を無視しており、全く話にならない。橋下市長にリーダーの資格はなく、市長を即刻辞めてほしい。」(毎日新聞5月14日配信)
風俗が女性の人権を無視しているかどうかは、これは難しい問題です。つまり、結論が出ていないということです。
その証拠が、法律上、一定の風俗産業が認められているという事実に示されています。
そして風俗産業そのものは、世界的にも女性の人権侵害だとはされていません。
(※人権侵害だと主張し、それを広める活動をしている人はいますが、世界全体の統一された意思ではない、という意味です。)
橋下市長は法律上認められていることを根拠に、それを前提に主張しているのですから、この批判も的外れと言わざるを得ません。
橋下市長の主な発言と、それに対する批判の一部を取り上げましたが、批判の多くは、似たり寄ったりです。
まず、事実を批判しているものはありませんでした。
そして、橋下市長が当時の価値観と現在の価値観に分けて発言しているのに、批判している人は現在の価値観で当時の価値観を批判しているだけのようです。
現代に生きる人が中世の魔女狩りを、「なんでそんなバカげたことをするのか!?」と言って批判するようなものです。
現代になったから、その愚かさがわかったのです。それだけ進歩できたのです。
そして、そういう的はずれな批判をして、橋下市長個人を非難しています。
こういうやり方では、議論がかみ合わないのは当然だし、声が大きいものが勝つという暴力至上主義を認めているようなものです。
本当に全体で良くなろうと考えているなら、このような批判の仕方では、何も変わらないのではないでしょうか?
最低でも、事実と価値観は分けて議論すべきです。
まず、事実の認識に誤りがあるのかどうかという視点が重要です。今回の件では、事実に関する批判はありませんでした。
次に、価値観が目的にかなっているかどうかという視点が重要です。
そして、当時の価値観を現在の価値観で批判しても意味がない、という考えを共有することが大切です。
なぜなら、当時の人にとってみれば、それが最善だったのですから。
当時の価値観を批判するのではなく、当時の価値観で目的が達成できたかどうかを検証することです。
その結果、目的が達成できていないと判断するなら、新しい価値観を採用するだけではありませんか?
何かの価値観を絶対的なものと考え、ある価値観をその人と結びつけて考えるために、今回のような人物批判が出てくるのだろうと思います。
けれども、人物批判は怨みを生み出すだけで、何のメリットもありません。
世の中に平和がもたらされないのは、このようにして互いに憎しみ合うからではないでしょうか?
私達の目的は、私たち全体として平和で幸せな社会を、実現することではないのでしょうか?
一部が特別だと考え、他者を切り捨てるやり方は上手くいかないと、何千年の歴史で学んできたのではないのでしょうか?
だとしたら、憎しみから辛辣な批判を投げかけることは、その目的に反することは明白です。
その価値観で目的を達成できないと気づいたなら、大胆に価値観を変えることです。
他の考え方を選択することです。
人はいつでも自由に変われるし、変わるべきなのです。
絶対的な価値観があると信じたり、価値観と自分を同一視したりしていると、いつまでも古い価値観にしがみつくことになります。
私たちは今こそ、新しい価値観を受け入れるときだと思うのです。
2013年05月15日
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