今年は、私の故郷、島根県の出雲大社で遷宮が行われています。
平成の大遷宮と呼ばれるもので、60年ぶりに行われるのだそうです。
また、伊勢神宮の式年遷宮も10月に行われる予定ですが、こちらは20年に1回の行事です。
今年は、出雲大社と伊勢神宮が共に遷宮を行うという、珍しい年になりました。
60年に1回と20年に1回なら、60年毎に一緒に行うことになりそうですが、そうはならないようです。
つまり、きちんと20年ごととか、60年ごとにできない事情が発生するためです。
それで、今年がたまたま一致したというわけです。そういう意味で、特別な年と言えるかもしれませんね。
昨年は、古事記編纂(へんさん)1300周年ということで、出雲でもキャンペーンをやっていました。
出雲大社も伊勢神宮も、ともに日本という国の成立に深く関わっています。
そういう歴史を知るために、古事記を読んでみるのも良いかもしれませんね。
とは言っても、原文ではなかなか読みづらいし、現代語訳にしても、とっつきにくいかもしれません。
そんなときにお勧めなのが、「まんがで読む古事記」です。
漫画というのは、ストーリーが自然と頭に入ってくるので、全体をつかみやすいです。
実は「三国志」も漫画で読んだ方が、印象に残っています。
古事記に描かれた神話は、様々な形で現代に受け継がれています。
私の田舎で行われている神楽も、その1つです。
主に石見(いわみ)地方と呼ばれる、島根県の西半分で広く行われているのが、石見神楽と呼ばれるものです。
私の田舎の神楽の様子を動画にしたので、雰囲気を味わってみてください。
これは、天照大御神がお隠れになったという古事記に書かれている物語で、「磐戸(いわと)」と呼ばれるものです。
こちらは、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇が塵輪(じんりん)と呼ばれる鬼を退治する物語です。
島根県は横に長いですが、昔は2つの別々の国で、それぞれ石見の国と出雲の国と言いました。
ですから言葉も、「出雲のズーズー、石見のガーガー」と言われるように、方言が異なっています。
そういうこともあって、同じ島根県ですが、石見の人間は出雲とは違うと考え、出雲の人は石見とは違うと考えたりします。
私は石見の人間ですから、やっぱり石見が好きですね。
ですから石見神楽にも、特別の愛着を持っています。
「なぜこの素晴らしさがわからないのだろう?」と、不思議に思いますね。
さて、そんなお国自慢ですが、これも長い歴史を経て培われてきたものです。
歴史を重ねることで、故郷への愛着が深まっていきます。
それぞれが我が故郷を自慢して盛り上がっているうちは良いのですが、違いを理由に他者を攻撃したり、排斥しだすと大きな問題になります。
最近は特に、ナショナリズムの高揚から、偏狭な考え方になってしまい、我が国がより優れているとか、我が民族がより優秀だというように、競い合っているところが見られます。
それぞれの人のアイデンティティーを支える意味で、ナショナリズムにも役に立つ部分があります。
けれどもそれが高じて、他を排斥したり、おとしめたりするようになると、大きな問題に発展しがちです。
現在の世界を見てみると、戦争や紛争の要因は主に、宗教とナショナリズムです。
そしてその宗教とナショナリズムに共通しているのは、「自分たちが正しく、相手が間違っている。」とか、「自分たちが優れていて、相手は劣っている。」という考え方です。
あるいは、「自分たちこそが特別だ」という考え方です。
そういう優劣を競う考え方を捨てない限り、世界に平和が訪れないことは、明白なことではないでしょうか?
もし、それが明白なら、どうしてそうしないのでしょう?
言葉では世界平和と言いながら、本心ではそれを望んでいないのではないでしょうか?
たしかに、自分たちは特別かもしれません。けれども、他の人たちも同様に特別なのです。
ある面で、私たちが優れているかもしれません。けれども、別のものさしを使えば、他の人たちの方が優れているとも言えるのです。
私たちには、違いがあります。
違いとは、言葉通りに違っているというだけで、良いも悪いもないのです。優れているも劣っているもないのです。
バラの花は、ユリの花より優れているのでしょうか?ただ違っているだけです。
メダカは鯉より劣っているのでしょうか?ただ違っているだけです。
違いがあるからこそ私たちは、自分とは何かを定義できるのです。
たとえば真っ白な空間に真っ白なボールが浮かんでいたら、どうやって自分自身を定義するでしょう?
壁が青かったり赤かったり、あるいは黒かったりするから、自分は白いと定義できるのです。
違いがある他者が存在するお陰で自分が存在するのだと思えば、どうして他者をバカにできるでしょう?
自分のことが大好きで、自慢したい気持ちはよくわかります。それだけ自分は特別なのです。
けれども、それと同じくらい、他人にとってはその人自身が特別なのです。
私たちは違っていますが、それぞれ同じように特別な存在です。
どっちが正しくてどっちが間違っているとか、どっちが優れていてどっちが劣っているなんでことはありません。
そういう考え方に立って、宗教やナショナリズムを見直してみる時ではないかと思うのです。
2013年05月14日
この記事へのコメント
コメントを書く
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。