昨夜、帰宅してから本を読みました。
今は、「神との対話」シリーズの「新しき啓示」を読んでいます。
これは、9.11のテロを受けて、人類が人類に敵対する時代に、平和をもたらす方法を示す目的で書かれたものです。
あれから10年以上が過ぎますが、人類はその危機を回避するまでには至っていないようですね。
写真にあるように、缶ビールを飲みながらの読書は、私にとって至福のひとときです。
もうこれだけで充分だと感じます。ありがたいことです。
さて今日は、以前に読んだ別の本を紹介します。
すでに紹介している「ブッダのことば」と、「ブッダの 真理のことば 感興のことば」です。
仏教の最古の教典と呼ばれるスッタニパータが「ブッダのことば」で、同じくダンマパダ(法句経)が「真理のことば」です。
「感興のことば」はウダーナヴァルガの翻訳ですが、ブッダが感興をおぼえた時、ふと口にした言葉を集めたものという意味だとか。
「ブッダのことば」については、「死を悼むことについて」で一部を紹介しました。
釈迦がどういう生活をしていて、弟子などとどういう問答をしたのかがわかって面白いです。
釈迦の弟子が詩として口伝してきたものをまとめたもので、歴史上の人物としての釈迦を知ることができる貴重なものだそうです。
これを読むと、現代の仏教で言われている4つの真理である四諦(したい)は、言葉としては成立していないようです。
つまり、仏教が発展していく中で、四諦という形にまとめられたのだろうと思われます。
諸行無常や諸法無我に通じる考え方は、このときすでにあるようです。一部を引用しましょう。
「人々は「わがものである」と執著(しゅうじゃく)した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家(ざいけ)にとどまっていてはならない。」
「人が「これはわがものである」と考える物、−−それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してはならない。」
(六、老い,805-806,p.181)
このように、「常住ではない」という言葉に、諸行無常の考えが現れています。
また、所有することは執着であって、その執着から離れることが悟りへの道であることも示しています。
家族とかの愛情さえ、釈迦は否定しているように感じます。愛することも執着だと言っているからです。
だから人間関係も絶って独りで歩めと言うのでしょう。
このように、何かにとらわれることを徹底的に避けようとしている感じがしました。
見解でさえ、どっちが勝れていると論争することを執著だとして、こだわらないようにと言います。
どっちが正しいとか、どっちが間違っているという論争には加わるなということです。
さらに、戒律でさえもこだわるなと言います。引用しましょう。
「一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか、「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。−−安らぎを固執することもなく。」
(一三、並ぶ応答−−長篇,900,p.197)
五感を通じて得られるものすべてにおいて、確かなものがあると思うなということを強調します。
「師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」」
(七、学生ウパシーヴァの質問,1070,p.225)
「(ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、(死の王)は見ることがない。」
(一六、学生モーガラージャの質問,1119,p.236)
一方「真理のことば」は、仏教の教えという感じで、そこに釈迦の息吹を感じることはありませんでした。
でもその中には、第二次世界大戦後、日本の分割占領案に正面から反対したスリランカの元大統領が引用したブッダのメッセージがありました。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」
(第一章 ひと組みずつ,5,p.10)
また、八苦にあげられている「愛別離苦(あいべつりく)」や「怨憎会苦(おんぞうえく)」について書かれた部分もありましたよ。
「愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。」
「それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。」
(第一六章 愛するもの,210-211,p.39-40)
このように言って、愛するもの、愛情、快楽、欲情、妄執などから離れるようにと言うのです。
だから出家して、家族からも離れ、独りで歩むことを推奨するのかもしれませんね。
因みにこの内容とほぼ同じものが、「感興のことば」にも書かれています。(第五章 愛するもの,p.177)
「真理のことば」には、「四つの句」という言い方で四諦(したい)について書かれています。
また他の部分を読んでも、ブッダが言ったことというより、仏教としてまとめられたものという感じがしました。
「感興のことば」の中に、1ヶ所だけ気になるところがありました。引用しましょう。
「この世は熱のような苦しみが生じている。個体を構成する(五つの)要素(=五蘊)はアートマンではない、と考える。ひとは「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。それと異なったものになることは、あり得ない。」
(第三二章 修行僧,33,p.288)
唐突にこの文が出てきます。
五蘊というのは、人間の構成要素のことで、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の5つです。
色は身体のことで、残りの4つは心の働きとされます。
一方、アートマンとは、自我のことだとされます。
これから解釈すると、「自我(アートマン)は身体や心の機能ではなく、自分が「こうである」と思うもの、そのものである」ということでしょうか。
これには驚きました。
なぜなら、「神との対話」シリーズでも、このことが言われているからです。
私たちは、「私とは◯◯である」というものであると。
私たちはそう宣言することによって、そのようなものになると言うのです。
なぜなら、人生とは自分を創造することだから。
ブッダが実際、どのように考えて、どのように語ったのか、それを正確に知ることはできません。
けれども私は、ブッダがもっとも言いたかったのは、おそらく次のことだと思うのです。
苦しみを滅するには執着から離れること。執着から離れるためには、その姿を正しく見ること。
その姿を正しく見るとは、その対象が存在するように見える姿では存在していない、と見抜くということです。
では、見えているものは何なのか?
ひとことで言うなら幻想です。偽りの姿です。
だからその現実的に見えるものの真の姿を空(くう)であると見切って、そういうものだとして考えよということだと思うのです。
2013年05月09日
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