日本は5月5日の祝日が日曜と重なったので振替休日ですが、タイも5日が国王の即位(戴冠)記念日で、今日はその振替となっています。
今日は私の他にも出社している社員がいますが、ほとんど誰もいないオフィスで仕事をしています。
さて、先日も「神との対話」シリーズの「神とひとつになること」からピンと来たところを書いたのですが、今日も同様に書いてみたいと思います。

写真はちょっと見づらいですけど、ただ赤線が引いてあるだけでなく、文を囲ったり、上部に範囲の印をつけたり、ページの角を折ったりしているのがわかると思います。
少なくとも読むのは4回目だと思うのですが、何度読んでも、これだけ気づきが得られます。
まあ、それだけ理解が遅いとも言えますけど。(^_^;)
それはさておき、今日、紹介したいのは、幸せについて書かれていた部分です。引用しましょう。
「痛みからの解放は、必要なのではなく、そのほうが好ましいというだけだ。必要性から好ましさのレベルに移れば、あなたは自分の経験に比類ない力をふるえるようになる。」
(中略)
「肉体的な痛みのレベルより下ならば、必要性という幻想に対処するのはずっと容易だ。」
「幸せになるにはある人物が、成功するにはある仕事が、満たされるには感情的、物質的な何かが必要だとあなたは思うかもしれない。そのときこそ、「たったいまのわたしは、それなしで存在している」、そう気づくべきだ。」
「それなのに、なぜそれが必要だと思うのか?」
「よくよく考えてみれば、生きるのには、あるいは幸せであるためにさえ、それは必要ないと気づくだろう。」
「幸せは経験ではなく、意志である。」
「幸せに必要だと思うものがなくても、幸せになれると決めればいい。そうすれば幸せになる。」
(中略)
「あなたの経験は意思決定の結果であって、原因ではない。」
(p.198 - 199)
つまり、私たちが出くわす出来事というのは、結果であって原因ではない、ということなのです。
それはつまり、私たちの創造の「結果」であり、私たちの在り方の「原因」ではない、ということです。
原因が私たちにあり、私たちが原因そのものであるなら、出くわす出来事によって左右される必要性はありません。
私たちがそうありたいように、自分で在り方を決めれば良いのです。
そしてその在り方が原因となって、結果である出来事を創造します。あるいは引き寄せます。
このことが、大昔から多くの人が言い続けてきたことなのです。
一見、そうは見えません。幻想は、とても現実的ですから。
だから私たちは、何度もそのことを耳にしながらも、信じてこなかったのです。
何度も何度も、そう言われているのに信じないから、自分の真実とならなかったのです。
私はまだ、その一部を知ったに過ぎないでしょう。ほんの一部を体験しただけでしょう。
けれども、その体験によって、そのことが正しいと感じたのです。
もちろんそれは、私にとっての真実です。
ですから、あなたにとっても正しいことだとは言いません。私の言うことをすべて信じるよう強制したりはしません。
ただ、あなた自身で感じてほしいのです。
ひょっとしたら何か、自分が見逃してきたことがあるのではないか?
そう考えて、自分の心の中に答を探してほしいのです。
私は、私の人生をさらすことで、みなさんへのメッセージとしたい。そう思っています。
大昔から言われ続けてきたことが、本当に正しいのか?少なくとも私にとって、本当に正しいことなのか?
そのことを、私がそのように生きることによって、示そうと思うのです。
なぜなら、それがもっとも私らしい生き方だと思うから。
今、私は、そういう生き方ができることを、心から感謝しています。心から喜んでいます。
そして私は今、とても幸せです。