なかなか上達しませんけど、こうやって体を動かせるということは、それだけで十分に幸せなことですね。
土日に会社の車を使うのは、ドライバーさんの超過勤務手当を払ってあげるという意味もあります。
と言っても会社からではなく、私の懐からですけど。
まあ、私は経営者ですから、同じようなものですけどね。
練習場から帰る途中で、雨が降り始めました。
こちらの雨は、たいていはスコールです。ザーッと激しく降って、1時間ほどでやみます。
今日も、あたりが雲がかかったように見えるほどの雨。日本風に言うなら、バケツの水をひっくり返したような豪雨です。

こういうときは、傘を差しても役に立ちませんから、たいていの人は雨宿りです。タクシーもなかなか拾えませんし。
こういったことも、タイ人が時間を守らないというか、そもそも時間を守るべきという概念が乏しくなる原因でしょう。
「だって、しょうがないじゃない。雨が降ってたんだもの。」
以前なら、「それでも守れ!」と感じる自分がありましたが、今は、それもありなのかなあと思っています。
さて、今日も1人でオフィスに来ています。
ちょうど今朝、「神との対話」シリーズの「神とひとつになること」を読んだとき、ピンとくるところがあったので、そこをブログに書こうと思って本を持って来ました。
この本も、すでに半分以上、読み終えました。最近、本を読む時間が増えています。

ブログに書きたかったのは、「必要性という幻想から離れる」ことについて書かれた部分です。
私たちは、常に何らかの必要性を感じて生きています。
究極は、命の必要性ということになります。それを支える空気だとか、食べ物だとか。
また、文化的な生活の必要性、家族を養っていく必要性、称賛される必要性、愛される必要性など、程度に差はあっても、様々な必要性を感じています。
この必要性というものは幻想であり、それが幻想だと見抜くことによって、不安を取り去り、絶対安心の境地で生きられるということが、この本には書かれています。
必要性というのは、仏教的に言えば執着です。
何かに執着する心を手放せないから、それが得られないことが不安になります。
そしてその不安が、人の苦しみとなるのです。
仏教では執着を、煩悩が引き起こすとしています。煩悩とは欲望のことです。ですから、欲望を抑えることが重要になります。
そしてその欲望が起こるきっかけは、五感にあるとしています。見たもの、聞いたもの、触ったものなどの感覚が、欲望を引き起こします。
したがって仏教では、五感を働かせないようにすることも言われています。
夏の暑い時でも「暑い」と言うなとか、冬の寒い中でも裸足で野山を駆け回るなどの修行は、そういうところから来ているのでしょう。
僧侶が女性に触れてはいけないというのも、情欲の思いが起きないように、五感を制限するための戒めなのでしょう。
では、「神とひとつになること」では、どのように言っているのでしょうか?一部を引用しましょう。
「不安なしに生きるには、人生の(life:生命の)帰結はすべて完璧だと知ることだ。あながたが最も恐れている帰結、つまり死でさえも。」
(中略)
「自分の人生を(life:生命を)見つめれば、つぎの瞬間に達するために必要なもの、そして、いまここにいるあなたに到達するために必要だったものはすべて、いつももっていたとわかるだろう。その証拠は、いまここにあなたがいることだ。ほかに何も必要でなかったことは明らかだ。もっと何かが欲しかったかもしれないが、しかし何も必要ではなかった。あなたはつねに満たされていた。」
つまり、今の自分がここに存在する事実からして、これまでの人生で、必要なものが得られないということはなかったと言うのです。
これまでがそうであるなら、これからもまたそうである。それが人生というものだ。そう言うのです。
「すべては完璧になるから恐れることは何もないとわかれば、それまでは恐ろしいと思っていたことにも違った光があたる。闇ではなく、光のなかにあると見えてくる。あなたは不安を「冒険」と呼ぶようになるだろう。」
「この組み換えによって、人生はがらりと変わる。あなたが不安なしに生き、本来そのために創られた栄光を経験するだろう。」
「不安」から「冒険」へ。この言葉を変えるだけで、ビクビク・オドオドからワクワク・ドキドキに気持ちが変わりませんか?
たしかに人生は、何が起こるかわからない。それはゲームでもドラマでも、結末がわかっていたらつまらないのと同じです。
けれども怖れを抱きながらゲームをしたり、不安に悶々としながらドラマを見る人はいませんよね。
結果がどうであっても、本当の自分には何の関係もないことであり、影響がないとわかっているからです。
「必要性という幻想を幻想と見抜けば、幻想を本来の目的に使うことができる。栄光を体験し、真の自分を知る道具(ツール)として使える。」
「たとえば身体が必要だという幻想を使えば、あなたはそれを守り、大切にして、濫用するまいと思うだろう。そうすれば身体はさらに大きな栄光という本来の目的のために使える。」
(中略)
「幻想を現実と信じてしまうと、幻想を注意深く利用するための用心が不安に変わり、幻想にしがみつくことになる。愛が所有になり、所有が強迫観念になる。あなたは執着(attachment)の罠におちいる。幻想の中で迷子になる。」
(p.152 - 153)
幻想というのは、私たちの本質である「ひとつのもの」が、その素晴らしさを体験的に知るための道具なのです。
絶対的な領域では、比較することができません。白昼に明るい灯火をともすようなものです。その素晴らしさがわからないのです。
素晴らしく明るいものだということは知っていても、その素晴らしさがわからない。なぜなら、それしか存在しないから。
したがって、存在のすべてである「ひとつのもの」は、その定義からしても他に何も必要としない存在なのですが、その素晴らしさを体験的に知るために、必要性があるという幻想が必要だったのです。
その幻想があることによって、必要性がないということの素晴らしさを体験できるのです。
私たちの人生において、先が見えないことはしょっちゅうあります。
それによって、何かを失うかもしれないとか、何か重要なものを手に入れられないかもしれないという想像を、私たちが抱くことを可能にします。
けれどもそれが幻想だと知っていたら、その幻想を楽しみながら、安心していられるというわけです。
なぜなら、人生で起こることがすべて必然で無駄がないから。つまり、完璧だからです。
その信念が私たちを、私たちの人生の中の絶望の淵から救い上げてくれるのです。
私の人生も、けして順風満帆ではありませんでしたし、今もそうです。
でも今は、私には嵐の海を乗り切るための道具があります。
幻想を幻想として見抜くという考え方です。
私はそれを使って、自分の人生を生きようと思います。
その私の生き方をさらすことで、幻想にとらわれて苦しんでいる人たちへのメッセージとしたいと思うからです。