2013年05月03日

いじめと自殺

2012年9月、兵庫県川西市の高校生が自殺しました。

その件で警察が、中傷する発言をしていたとして告訴された同級生3人を、侮辱容疑で書類送検したそうです。

自殺した少年の体が触れそうになると「菌がつく」と言ってからかったり、消しゴムをちぎって投げつけるなど、いじめられたのが自殺の原因だと訴えていたのです。

警察は、自殺の直接原因とまでは言い切れないものの、侮辱罪が適用できると判断したのでしょう。


しかし、この警察の対応には違和感を覚えます。

高校生の、つまり子どもの、学校での出来事です。

小学校や中学校なら、いじめとまで言わないものの、同級生や下級生を言葉でからかうことはよくあることです。

高校生にもなって、こんなくだらないことをする程度の低さは嘆くしかありませんが、それでも、侮辱罪に問われるほどのことでしょうか?


自殺した少年の両親の立場に立てば、悔しくて、少しでも恨みを晴らしたいかもしれません。

あるいは、別件逮捕のような手段を使ってでも、法廷で真実を明らかにしたいと考えたかもしれません。

しかし、このやり方で、本当に望みどおりになるでしょうか?

私には、そうなるとは思えないのです。

 

誰かが自殺すると、すぐにその加害者が糾弾されます。

このケースでは、いじめたとされる同級生3人です。

でも、悪いのはこの3人だとして、この3人を処罰すれば、すべてが解決するのでしょうか?

私はむしろ、そうやって誰かを加害者に仕立てて罪を着せることで、問題が解決しない状態になると思っています。


たとえばこの事件で、実際に3人がいじめを行い、それが引き金となって少年が自殺したのだとしましょう。

でも、それぞれの立場で、それぞれの事実があるのです。


「あれくらいのことで、普通、自殺なんかしないよなあ。オレたちが悪いんじゃないよ。ひ弱に育てた親の責任の方が大きいと思うぜ。」

加害者とされる同級生3人は、心底そう考えているかもしれません。

そこで罪を着せられ、処罰されたら、反省するというよりも恨みを抱くだけではないでしょうか。

「オレたちがこんなふうにされるのは、あいつが自殺なんかするからだ。オレたちこそ被害者だよ。あの親、絶対に許さねえ。」

そう考えて非行に走り、恨みを晴らそうとするかもしれません。


何度も言いますが、価値観は人それぞれなのです。

そして、その人の価値観において、その人は間違ったことをしません。常に自分は正しいのです。


それを力づくで他の価値観を押し付けようとしても、反発するだけです。

人はそもそも自由ですから、自由を奪われることを嫌います。そして抵抗するものなのです。


教育というのは、他の価値観を押しつけることでしょうか?

これまでの日本の教育を考えると、それが公教育でも家庭教育(しつけ)でも、そういう傾向があるように感じます。

本当の教育はそうではなく、自分の価値観で生きることを励ますことだと思うのです。

そして、自分で自分の価値観を、より大きな自分になるために変えていけるようサポートすること。


いじめという事件は残念なことですが、教育という視点に立つなら、絶好のチャンスだと思います。

その経験を無駄にすることの方がもったいない。

だから覆い隠したり、強制的になくそうとするのではなく、しっかりとその経験を味わわせることが大切だと思うのです。

いじめた人、いじめられた人、そしてそれを見た人。

それぞれの立場において、どんなふうに感じたのか、自分の感情を表現することです。

みんなで自分の感情を表現し、それを共有することで、他の視点での感情を体験することができます。

そして、それらを知った上で、どうあるのが自分らしいのかと問いかけるのです。


人は、どんなふうにもなれます。自由なのですから。

その出来事を通じて、体験を通じて、自分自身を創っていくのです。


出来事は、そのきっかけを与えてくれます。

つまり、それぞれの人にとって贈り物なのです。

せっかくの贈り物なのに、見ないふりをしたり、味わいもせずに否定したり、拒否するなんて、実にもったいないことです。

それでは、せっかく自殺という最大の贈り物をしてくれた少年に対して、申し訳ないではありませんか?


この世で生きている人は、出来事を通じて自分を進化させることができます。

そのために、この世で生きているのです。

そうであるなら、せっかくの贈り物を無駄にしては申し訳ない。そう思うのです。

 

その出来事によって、自分はどう感じたのか。まずは自分の感情を、素直にしっかりと味わうことです。

そして、次に他の人の立場で味わい直してみます。他の人が感じたことを聞くのは、本当に素晴らしいことです。

そうしたあとに、その体験を通じて、自分がどうあろうとするかを決めます。

教育とは、そういう自己創造を励ましたり、より深い体験にできるよう導くことではないでしょうか?

罪を問うても、罰を与えても、それはできません。

人を進化させるには、真の教育の手助けが重要なのです。


高校という教育の現場で起きたことなのに、その出来事が生かされないことを残念に思います。

知識を詰め込む教育とは縁を切って、真の教育に転換する日がはやく来るよう、私は願っています。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:16 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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