2013年05月01日

昇進昇給の発表が終わって

先日書いた「昇給と愛の減少感」の続きになります。

うちの会社では、みんなの前で昇進を発表し、昇進した人を全員でたたえます。

その後、一人ひとりと経営者が面談し、そこで昇給を伝えます。

その際、経営者側からは期待していることとか、評価していることなども話します。

そして社員からは、昇進・昇給に関して、あるいはその他なんでも、経営者に対して言いたいことを言ってもらうようにしています。


実はまだ全員との面談が終わっていません。

出張や出向している社員もいるため、まだ4分の1くらいの社員が戻って来られないためです。

そういう状況ですが、すでに問題は起きています。


数名から尋ねられたのは、昇進にあたって、試験と上司による評価の判定割合についてです。

私の答は、「決めていない」というものです。

試験ですべての能力が測れるとも思わないし、上司の評価が正しいとも限りませんから。

我々が接した感じとか、お客様からの評判など、様々なことから総合的に評価します。

こんなこと当たり前だと思うのですが、社員にとっては当たり前ではないのですね。

ともかく見えるようにしてくれ、という要望が多いのです。


そんな人の評価を、そう簡単に見えるようにできると思いますか?

誰を昇進させ、誰を昇進させないか。結果は1つのものさしで示されますが、その選考過程のものさしは1本ではなく、何本も何十本もあります。

しかもそのものさしは長さや単位が違うものです。

砂糖5kgと荒縄1kmと、どっちの評価が高いかを決めるようなものです。


それに、社員同士が競争しているような状況が、私にはどうにも馴染めません。

社員は競争するのではなく、協力するものではないのでしょうか?

どっちが上であっても、それは定められた位置に過ぎず、それぞれの場で自分の力を発揮し、協力しあって大業をなす。

そういうものではないのでしょう?私は、そうであってほしいと思うのです。


そして、どんなに明確な判定を下したとしても、不満を持つ者は不満を持つのです。

今回も、明確に不満を表した社員が2人いました。

1人は、頭は良いのですが、勤務態度が良くないのです。遅刻が多いし、服装も規則違反を繰り返しています。

その社員はこう言います。

「自分は遅刻が多いかもしれないけど、他の社員より仕事が速いから、遅刻しない社員よりもよく仕事をこなしている。それなのに、そういう社員より評価が低いのは納得がいかない。それは、評価の基準がおかしいのだ。」

こんな感じです。

たしかに、その社員の言い分も正しいと言えます。その社員の価値観に基づくなら。

だから、どんな評価方法も全員を納得させるような基準などあり得ないのです。


もう1人は、同期の中の1人が3ランクUP、2人が2ランクUPだったのに、自分だけが1ランクUPなのは納得が行かないと言うのです。

これは、これまで評価が高いと言われながらも差がつかないことに不満を持つ社員が多い(声が大きい)ため、その不満解消の意味もあって、今回から大きく差をつけるようにしたためです。

けれども上司の評価は、それぞれの社員にフィードバックしてあります。その評価通りに結果に反映したのです。

そう説明すると、その社員はこう言いました。

「自分は他の同期の社員と違って、お客様との間に別の会社の社員が入っている。だから、どんなにがんばってもお客様から評価されないからだ。」

こう言って、職場環境が評価に悪影響を与えていると言うのです。

でも、全員が同じ仕事を同じ環境でするわけではないのですから、そういう差ができるのは当然ではありませんか。

質が異なるものを比べようとするのですから、どうやったって公平になどできません。誰かにとっての公平は、他の人にとっての不公平だからです。


評価する資質だって、何も1つの要素ではないのです。様々な要素があります。

たとえば性格が明るくて周りの人たちをやる気にさせてくれるという要素と、理解力があってプログラムを簡単に作ってしまうという要素と、どうやって比較しますか?

比較などできないでしょう。仮にそれぞれ点数をつけるとしても、その点数にどれだけ合理性があると言うのでしょう?

誰もその合理性を証明できないし、本人ですらはっきりしないことを、他の人に対して納得させられるはずがありません。


こちらを立てればあちらが不満を持ち、あちらを立てればこちらが不満を持つ。

そうされると、ついついおとなしい人にしわ寄せが行ってしまいがちです。

本当はそれは良くないと思うのですが、社員に辞められては困ると思うと、どうしても不満をあらわにする方をなだめようとすることになるのです。

会社が立ち行かなくなってしまえば、元も子もありませんから。


もちろん、程度というものはあります。

さっきの会社の価値観にしたがえないという社員ですが、どうしても理解してもらえないのであれば、「あなたの好きなようにしなさい」と言う他ありません。

「あなたの価値観が間違っているわけではないが、我々の価値観も間違っているわけではないと思っている。だから、その上でしたがえないと言うのであれば、お互いのためにも袂を分かつ方が良いかもしれないね。」

人はそれぞれ自由ですから、自分の節を曲げてまで、相手にしたがう必要性はないのです。

 

今回の件で、聖書にあった物語を思い出しました。

詳細なことを忘れてしまったので、記憶にある断片を書くことにします。


王には2人の息子がいて、そのうちの弟(ひょっとしたら兄)の方が王に言って、財産を分けてもらいます。

いわゆる生前贈与ですね。

財産をもらった弟は、王宮から出て放蕩三昧をするのですが、ついにそれを使い果たしてしまいます。

乞食のようになった弟は、もう王に頼るしかないと思って、重い足取りで王宮に戻ろうとします。

その姿を遠くから見つけた王は、駆け寄って服を着せてやり、温かく迎え入れました。そして子羊(ひょっとしたら子豚)を殺して宴会を開いたのです。

すると、残っていた兄(ひょっとしたら弟)が王に文句を言います。

「王様はこれまで一度だって、私のために子羊を殺して宴会を開いてはくださらなかった。それなのに、どうして弟のためにはそうしてやるのですか?」

明らかに嫉妬したのです。愛の減少感です。カイン・コンプレックスです。

すると王は言いました。

「あの弟は、王宮を出て行っていなくなってしまっていたのだ。今私はそれを見出した。だからそれを喜んで、宴会を開くのだよ。それにあなたには、すべてのものがあるではないか。これまでずっと私とともにいて、十分に贅沢をしていたではないか。」



こんな話です。

この結論がどうだったかも覚えていないのですが、まさにこの王は、親の立場であり、経営者の立場です。

兄と弟と、どっちを愛しているのだと問われても、どっちとは答えられません。

兄は兄として、弟は弟としてかけがえのない存在なのです。


社員が不満を持つことは、できれば避けたい。それは怖れているからではなく、彼ら自身が辛いと思うからです。

何かに不満を持つことは、それだけで辛いことなのですよ。

もし自分の愛する人が辛い状況にあったら、なんとかしてあげたいと思うでしょう?それと同じです。


でも、できることとできないことがあります。

辛い状況に置くことを、忍ばざるを得ないこともあります。基本的に相手は自由ですから、強制はできませんから。

そんなときはこう思うのです。

「いつかわかってくれる。いつかこれが、自分にとって良いことだったのだと、わかってくれる。」

そう信じて、自分の決めた道を進もうと思うのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:12 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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