ちょっと大上段に構えて、「生命とは何か?」ということを考えてみたいと思います。
みなさんは生命って、何だと思いますか?
まあ、いきなりこんな抽象的な質問をされても、答えにくいでしょうね。
では、人は生命ですか?動物は?植物は?
「自然に成長するものは生命だよ。」
「いや、それらは生命が宿っているのであって、その物質的な塊が生命ってわけじゃないでしょう。」
たしかに、人や動物が死んだ後の死骸を、生きているときのものと同じとは言いがたいですよね。
では、刈り取った植物は?
「刈り取られても、また植えれば生えてくるから、まだ生命がなくなってはいないんじゃない?」
では、枯れてしまったらもう生命じゃない?クローン技術を使ったらどうでしょう?
細胞1つからでも元の生命体が復元できるとしたら、生命が朽ちるときって、いったいいつなのでしょうね?
細胞のすべてが死んだ時でしょうか?
ガイア理論というのがあります。
地球全体が、まるで1つの生命体であるかのように、恒常性を保っているというものです。
たしかに、地球上の生態系は不思議です。
たとえば二酸化炭素を必要とする植物が酸素を排出し、酸素を必要とする動物が二酸化炭素を排出するという、みごとなバランスがあります。
個別に見ても、花は虫によって受粉を助けられ、子孫を残すことができます。一方で虫は、花から蜜をもらうことで生きることを助けてもらっています。
1つ1つの生命体を切り離して生命を考えることもできますが、もっと大きな視点に立てば、その全体を生命と考えることもできるのです。
よく、自然は弱肉強食と言われます。
でも、本当にそうなのでしょうか?
肉食動物に襲われて生命を絶たれ、食べられてしまう。そのシーンを残酷と思うから、そのように考えるのではないでしょうか。
でも、別の見方もできると思います。
食物連鎖の上位に立つ動物は、その下位の動植物によって生命を支えられている。
つまり、弱いものを襲って好き放題にしているのではなく、弱いものがいてくれて生命の維持に必要な物を分け与えてくれるから、生きながらえているのだと。
自然界では、無用に相手を殺すことはありません。
ですから、弱者も生き残ることができます。
いえむしろ、弱者こそが生き残っているというべきでしょう。
そうして、全体としてはお互いに補完する関係を保っているのです。
昨夜、部屋の中でアリの行列を見つけました。体長1mmくらいの小さなアリです。
どうやらゴミ箱に捨てたアイスクリームの袋にたかっているようです。
「マンションの11階なんだけどなあ。本当に、タイはすごいよ。」
そう思いながら、私はティッシュでアリを拭きとりました。かわいそうと思いながらも。
そのとき、ふとこんな考えが湧いてきたのです。
アリは、その1匹1匹が生命体であると同時に、巣を作っている全体が1つの生命体じゃないのだろうか?
まるで本体が巣の中にあって、外に出て餌を探し回っているアリたちは触肢ですね。
もう部屋中、いたるところをくまなく這いまわっています。よく迷子にならないものだと、感心しますよ。
そして触肢が餌を発見すると、神経は本体に餌の在り処を伝えます。餌の在り処を伝えようとするアリの動きは、まさに神経ではありませんか。
その情報を本体が得ると、今度はその餌を捕獲するために手が動き出すのです。捕獲隊、出動です!
蜂もそうですが、働きアリは、それぞれに役目があるそうです。
そして、巣の中で休んでいるのが役目のアリもいるのだとか。
外で何か事故があって、たとえば誰かにティッシュで拭き取られるなどして大量に働きアリが死ぬと、休んでいたアリが働きアリとなって活動し始めるのです。
トカゲの尻尾切りじゃありませんが、一部が死ぬことを何とも思っていないかのように。
「なんか、こいつらすっげーなー!」と、妙に感心してしまいました。
アリが気になっている方のために言うと、拭きとったのはほんの一部です。
ゴミ箱の中のアリの餌になりそうなものを片づけ、とりあえず大量発生という状況だけはなくしました。
でも、相変わらずあちこちに這い回っているんですよね。
本を読んでいると本の角のあたりをチラチラと走り回ったり。まあ、かわいいと思えなくもありませんがね。
でも、自分の身体中を這い回っていると想像すると・・・。(^_^;)
さて、話を戻しましょう。
もし、生命というものが、個々の生命体で分断されたものではなく、全体を包み込んでいるものだとしたら、どうなるでしょうか?
私は、その可能性があると思います。と言うより、そうだと信じています。
アリですら、1つの生命のように生きるのです。
自然界は、共存共栄しているのです。
どうしてそれが、個々にバラバラなどということがあるでしょうか?
私は、ガイア理論を詳しく知っているわけではありませんが、地球全体というより、宇宙全体が生命だという方が的を射ている気がします。
地球は地球単独として存在しているわけではないし、存在できるわけではないからです。
そして、死ぬということが、生命がなくなることとも思いません。
私たちは常に変化するものであり、死もまた変化の1つに過ぎないと思うからです。
そういう意味では日々が死であり、誕生なのです。
生命とはこの世の全体、つまり宇宙全体であり、過去も現在も未来もあり続けるもの。
ただその姿を刻一刻変えながら、進化し続けるもの。
もしそうであるなら、生命は永遠であると言えます。
子孫を作るから永遠なのではありません。もともと生命が永遠なのです。
その永遠の生命の中で、増えもせず、減りもせず、絶え間なく変化を続けているのです。
そして私たちは、その生命の一部であり、生命を観察することができるものです。
他の動植物や鉱物などは、単に存在するだけですが、私たち人間は、生命を観察できます。
つまり自分自身について、客観的に考えることができます。
何のために?
私は、それこそが人間が創造者であることの証だと思うのです。
私たちは観察し、変えることができます。
変化は生命の常ですが、私たちは意図的に変えることができます。
私たちは共同で、この世を創っている。共同で、生命として生きているのです。
さて、もしそうだとしたら、何かが変わるでしょうか?
おそらく人は、バラバラだという認識を捨てるでしょう。
気に入らないから殺すとか、自分たちとは違うから殺すというような、無益な殺生はなくなるでしょう。
なぜなら、他人にすることは自分たちにすることだから。
口が自分と違うと言って鼻に噛みつかないように、他人を痛めつけることを喜ばなくなるでしょう。
それは、私たちの理想ではないのでしょうか?
もしそうなら、元になっている信念を変えることです。
私たちはバラバラな存在ではなく、ひとつのものだという信念に変えるのです。
行動するよりもまず、自分の信念を点検し、自分らしいものに変えるのです。
そうすれば、自ずとそれは思考として、言葉として、行動として現れるでしょう。
そして、それらによって、私たちはこの世を創るのです。
2013年04月30日
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