2013年04月27日

愛と罰

4月はソンクラーンの休暇などがあるので、勤務日が少なくなります。

それなのに、社員の昇給や昇進などのためにやらなくてはならない作業もあり、本業の方が忙しいのです。

今年は昇給・昇進を決めるのが遅れに遅れて、やっと今日、決まった次第です。

そのため、通常なら休みなのですが、総務のスタッフが出勤しています。

務のスタッフが出勤しているオフィス

そういった本業の忙しさがあって、昨日はブログを更新できませんでした。

まあたまには、そういう日があってもいいでしょう。と、自分に甘くします。(^^)

 

さて、別に仕事に限りませんが、生きていれば、他人が思い通りに動かないことはよくあることです。

自分に何の影響もないのなら良いのですが、時には危害を加えられることもあるでしょう。

そういうとき、私たちはつい、他人を動かそうとしてしまいます。


その最たるものが罰です。

つまり、物理的に他人に影響を与えることで、他人の考え方や行動を強制しようとする試みです。

このことについて、今読んでいる「神との対話」シリーズ「神との友情(下)」には、以下のように書かれています。

先日まで「神との友情(上)を読んでいましたが、もうすでに「神との友情(下)」も4分の3くらい読み終わっています。


それで罰を与えようとする。だが報復するため−−つまり「仕返し」するため−−に罰しても、あなたがたが創りたいという社会はできない。高度に進化した社会は、罰からはほとんど学べないことに気づいた。それよりも、結果のほうが良い教師であると考えたのだ。

(中略)

罰は人工的に創られた結果だ。結果は自然のなりゆきだ。

罰は、罰される者とはちがった価値観をもつ外部の誰かが強制する。結果は、自己が内部で体験するものだ。

罰とは、それは悪いことだという他者の決定で、結果とは、それはうまくいかないという自分自身の体験だ。意図した結果を生まないという体験だ。

(中略)

とはいえ、あなたがたの多くは子供を育てるときに、その手を使うがね。そして、あなたがたが考え出したいちばん重い罰とは愛を与えないことだ。子供に、「こんな態度をとったら愛してやらない」と言う。愛を与えたり、とりあげたりして、子供をしつけ、矯正し、支配し、つくりあげようとする。神は、決してそのようなことはしない。

(中略)

真の愛は決して出し惜しみをしたりしない。それこそが、全面的な愛だ。愛には、最も間違った行動さえも包みこむ力がある。それだけではない。どんな行動でも「間違っている」とは言わない。

(p.101 - 103)


このように言って、罰は役に立たないと言います。

「間違っている」とか「悪い」ではなく、「役に立たない」のです

私たちが願うような、平和で、愛にあふれた社会、人間関係を築こうと思うなら、「役に立たない」のだと。


では、まだ何もよくわからない子どもを、野放しにしておけば良いのでしょうか?

その疑問に対しては、子どもが成熟しているかどうかで、対応に違いがあると言います。

成熟しているなら、罰を与えてコントロールしようとするのではなく、体験させ、その結果を自分で受け止めさせることが「役に立つ」のです。

まだ成熟していない子どもについては、以下のように言います。


まだ未熟な場合には、いちばん早く成熟に導く方法は、できるだけ早くから自分で選択する自由を与えることだ。

それが愛だ。愛は手放す。だが、あながたがよく愛と混同する、必要だという思いは反対だ。

必要だと思うとしがみつく。それが愛と必要だという思いを見分ける方法だよ。

愛は手放すが、必要だという思いはしがみつく。

(p.104)


可能な限り自由にさせ、体験させることが愛なのです。

自分の都合(=自分の必要性)から相手の自由を奪うなら、それは愛ではありません。

世間体とかが気になって、子どもの行動を制限しようとするなら、それは必要性であって愛ではありません。


それなのに、そういう親に限って「あなたのために言っているのよ!」と言って、責任を子どもに押し付けるのです。

けれども子どもは、直感でその嘘を見抜きます。

そして、親が本当には愛していないことを感じます。


それでも親に愛されたい子どもは、2通りの作戦のうちのどちらかを選びます。

1つは面従腹背です。いわゆる「良い子」になるのです。

けれども、それは自分自身を偽ることですから、その辛さに耐えられず、いつかは破綻します。

もう1つは、反抗することです。駄々をこねたり、暴れたり。何としてでも自由と愛の両方を得たいともがくのです。

しかしこれも、そういう親に受け入れられることではないため、多くの場合は愛を失うのです。

 

同書では続けて、愛について語ります。

期待を手放し、要求を手放し、愛する者に押しつける規則や規制を手放す。制約されていたら、愛されていることにはならない。全面的な愛ではない。

あなただってそうだ。自分を制約して全面的な自由を与えないなら、自分を全面的に愛していることにはならない。

だが、選択は制約ではないことを忘れないように。自分がした選択を、制約と呼んではいけない。子供たち、愛する者のすべてが良い選択ができるように、もっている情報のすべてを与えてやりなさい。

「良い」とは、望んだ結果が生まれるような選択、彼らが最も望む結果になるとわかっているような選択のことだ。つまり、幸せな人生だ。

そのために、あなたが知っていることを分かち合いなさい。あなたが理解したことを教えてやりなさい。だが、自分の考えやルール、選択をひとに押しつけてはいけない。ひとが、自分とちがう選択をしたからといって、愛を出し惜しみしてはいけない。それどころか、ひとが貧しい選択をしたと思うときこそ、愛を示してやりなさい。

(p.104 - 105)


人はみな、自由なのです。

自分で自由に選択し、その結果を自分で体験し、それによって新たな自分を選びたいのです。

そのことを認め、励ましてやることが愛だと言うのです。


罰によって、他人を強制することは愛ではありません。

愛は、他人の自由を認め、受け入れ、喜んであげることです。

仮に他人が自分を害するような選択をした場合でも、自分自身の必要性を手放す度合いに応じて、それさえ受け入れることができるようになると言います。

そうなったら、本当に自由になれますね。


私たちは、どこまで自由になれるでしょうか?どこまで愛になれるでしょうか?

それは、私たち自身の考え方しだいです。

あなたは、どこまで幸せになりたいと思っていますか?

その考えが、あなたの自由を、愛を、制限から解き放つのです。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:10 | Comment(0) | 幸せ実践塾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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