先日、「ブッダのことば」という本を読みました。
世界最古のお経とされる「スッタニパータ」を翻訳した本(中村元訳)です。
この本を読んで私なりに感じた、仏教の考え方(教え)について書いてみたいと思います。
仏教では、この世は苦しみであると見ます。
生老病死の四苦があると言うのですが、その中の死について、同書ではこう書いています。
「この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。」
「生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。」
「熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。」
(中略)
「このように世間の人々は死と老いとによって害(そこな)われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。」
「汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。」
「迷妄(めいもう)にとらわれ自己を害っている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。」
「泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。」
「みずから自己を害いながら、身は瘠(や)せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。」
「人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕(とら)われてしまったのだ。」
(中略)
「たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。」
「だから(尊敬さるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。」
(中略)
「己(おの)が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。」
「(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。」
(八、矢,574 - 593,p.129 - 131)
まず、「死後、人はどうなるか?」ということを知らない、ということを指摘します。
「どうなるかわからないのに、何を悲しむのか?」と言うわけです。
これに関しては、「千の風になって」という歌(日本語詞・曲:新井満,歌:秋川雅史)が流行った時にも、私は思いました。
あの歌の歌詞は、誰が作ったかわからない(※)英語の詩(「Do not stand at my grave and weep」)です。死んだ人が残った人に、語りかける内容になっています。
※メアリー・フライ作とするのが有力とも言われている。
私はこの墓にはいない。千の風になって、自由に大空を飛び回っている。だから、あなたは私のことを思って泣かないで。
もし、死後がそういうものであるとするなら、死者は自由を得て喜んでいるのかもしれません。
それがわからないのに、勝手に想像して嘆き悲しむというのは、おかしなことではないでしょうか?
大好きな人ともう会えないという喪失感から、悲しみの感情を抱くことはあるでしょう。
けれども、死んだ人のために嘆き悲しむ必要はないと思うのです。
次に同書では、嘆き悲しむことは自分を害(そこな)うことだ、と指摘しています。
悲しんで何か得になるなら良いけれど、特にもならないのなら、愚かなことではないかと言うのです。
それでも嘆き悲しむのは、悲しみに執着しているのだと言います。
ですから、その執着から離れ、煩悩を捨てて、心の平安を得るようにと諭すのです。
現代の仏教、特に日本の仏教は、「葬式仏教」と揶揄されるように、深く人の死と関わりあっています。
しかし元々は、死んだ人には関わらない、というのが仏教のスタンスだったようです。
このことは、「池上彰と考える、仏教って何ですか?」に詳しく書かれてありました。
仏教が日本に伝わった当初は、庶民の宗教ではなく、貴族の宗教だったようです。
仏教界は権力を持ち、庶民の苦しみには見向きもしなかったのだとか。
そこで宗教改革ならぬ仏教界の異端児が何人も出てきて、「庶民の苦しみを救わなくて何が仏教か?」とばかりに、新興宗教を起こすのです。
それが念仏仏教である浄土宗や浄土真宗です。日蓮宗も、この頃ですね。
今では伝統的なこれらの宗派も、当時は異端の宗教だったのです。
生きている人は布施や修業によって成仏する方法があるのですが、死んでしまった人はどうにもなりません。
輪廻転生によって、前世の因果にに応じて、来世の生まれが決まるのです。
しかし、残された人は、死んでしまった愛する人が、少しでも良くなるようにと思います。
でも、死んでしまった人自身ではどうにもならない。何とか助けることができないものか?
そこで生まれたのが、葬式とか法事だったのです。
この世から一所懸命に応援することで、閻魔大王などによる死者の審判を、少しでも有利にしてあげることができる。
そう説明することで、新たな仏教は庶民の葬式に浸透していったのだとか。
一方、キリスト教などの一神教は、輪廻転生を認めません。
人の一生は1回限りで、死後は天国に召されるか、地獄に突き落とされるかです。
したがってキリスト教の葬式も、残された人々が神に祈って、天国に召されるようにと嘆願するのです。
しかしこれも、後付けのようです。
イエス・キリストは、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(マタイによる福音書8-22)と言って、父親の葬儀に参列しようとした人を諭しました。
父親の葬儀に出ることよりも、自分に付き従ってくることの方が、その人にとって有益だと言うことなのでしょう。
葬儀を取り扱わなかった昔の仏教と、通ずるものがあるように思います。
人の死は、私が言うまでもなく、必ずやってきます。誰かが「人は死亡率100%だ」と面白い言い方をしていましたが、まさにその通りです。
生まれた瞬間から、死に向かって歩んで行くというのが、私たちの人生です。
そんな人生に、いったいどんな意味があるのでしょうか?死が苦しみであり、避けたいものであるなら、生きることがいったい何になると言うのでしょう?
まさに、そこです。
死は、本当に苦しみでしょうか?避けなければならないものなのでしょうか?
死から戻ってきた人の話もありますが、明確ではないと言うのが正直なところです。
けれども、可能性を考えてみることはできます。
どうせ避けられないのなら、思い切って、楽しくなる選択肢を選ぶこともできるでしょう。
私は今、死ぬことは怖くありません。
たとえ肉体は滅ぶとしても、私は肉体ではなく、私の生命は永遠に生きると信じているからです。
輪廻転生によって、何度も何度も、この世に生まれてくるし、またあの世にいるときでさえ、幸せでいられると思っているからです。
ですから、誰の死も悼(いた)みません。
儀礼上、そういう表現はするとしても、心の中では、死を嘆き悲しんだりはしません。
なぜなら亡くなった愛する人を、悲しませるようなことはしたくないからです。
彼らは、私が悲しむことを必要としていません。彼らは自由で幸せだから、私から必要とされることを望まないのです。
彼らもまた、完全な愛なのですから。
2013年04月24日
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