私自身のことを振り返ってみると、ここ5〜6年の精神的な成長には目をみはるものがあります。
自分のことをそう言うと、何だか偉そうに聞こえるかもしれませんが、自分で自分を認めてあげることも大切ですからね。
これは見せかけではなく、実際にそうなのです。間違いのない事実だと思っています。
そして、その成長のスピードが、加速度的に速くなっている気がします。
たとえば、タイに来た当初の12年ほど前ですが、私はタイの異文化に馴染めず、イライラしていました。
「なんでこうなるんだよー!おかしいじゃないか。ふつう、こうなるでしょう?」
そんな憤りを抱え、「タイは遊びに来るのならいいけど、仕事で来るものじゃない。」とさえ公言していたのです。
最初のカルチャーショックは、会社の近くの日本料理店でした。
店員が着物を着て応対してくれるという格式のある店。
そこで案内された席に座ると、やたらと寒く感じたのです。エアコンの風がまともに吹き付けていて、Tシャツ姿の私には、非常に寒く感じました。
「エアコンの風の向きを変えるとか、温度調整するとかできないのかなあ?」
そう思った私は、店員の女性に何とかしてほしいという意味でこう言いました。
「ここ、ちょっと寒いんだけど。」
日本だったら当然、「お客様、申し訳ございません。エアコンの設定を見てきましょうか?」とか言って、なんとか客の不快さを解消しようとするでしょう。
ところがタイは違うのです。その店員はこう言いました。
「私は暑いわ。」
そう言って、手であおぐ仕草までして、にっこりと微笑むのです。
いや、別にあなたと暑さ寒さの会話を楽しみたいわけじゃないんだけど・・・。
たしかに、着物をしっかり着ていますから、普通だったら暑いでしょうね。こちらも笑うしかありません。
笑わざるをえないけれど、「そうじゃないだろう!」という気持ちは消えませんでした。
こんなふうに、相手が自分の思い通りにならないことに腹をたてることが、とても多かったように思います。
そんな私に、タイの社会は遠慮なく文化の違いを見せつけてくれました。
頼んだことができない。納期を守らない。2つ依頼すれば1つは忘れる。
日本が、どれほど素晴らしい社会だったかと思いましたよ。
電車が1分と違わずに運行する。そのために、どれだけ多くの人が最大限の努力をしていることか。
約束をして守らないなんてことは恥ずべきことで、死んでも約束を守るくらいの気持ちが日本人にはありますし。
ところが、そんなことをしばらく続けていると、腹を立てることが苦痛になるのです。
腹を立てて苦しんでいるのは私自身です。相手はまったく苦しんでいません。こんな理不尽なことがあるでしょうか?
思いっきり殴ってやりたいなんて思ったことも1度や2度ではありませんが、そんなことをすれば身の破滅とわかっていますから、さすがにそれはやりません。
けれども、そうしたくなるほど辛かったのです。
そんなとき私の上司が、まったく関係のない会話の中で、こんなことを言いました。
「いろいろ考えると自分が辛くなるから、だから考えないようにするんだ。」
なるほどと思いましたね。
そして、それを応用するようにしました。
たとえば、うちの会社の運転手は、運転がとても慎重なのです。
まあ良く言えば慎重ですが、普通に言えばトロいです。
「いやいや、そこはもっと加速しようよ。」「えっ!?そのタイミングで出ないの?そこで出なかったら、ずっと出られないよ。」
そう言いたくなるほどです。(笑)
でも、考えてみると、それが良いこともあるのです。
たとえば、信号のない交差点で、こちらが直進しようとしていたとしましょう。右から来る車が、左ウインカーを出して交差点に侵入して来ます。
うちの運転手は、その車が左にハンドルを切るまで、けして前に進もうとはしません。
「ウインカーを出しているんだから、進めばいいのに。」
そう思うのですが、これは日本の常識です。タイでは、ウインカーを出しても曲がらなかったり、出さずに曲がったりが非常に多いのです。
出しても曲がらないのは、曲がる場所がその交差点の先だったりするからです。
日本だったら、間違われる可能性もあるから、交差点を通過してからウインカーを出しますよね。
つまり、ウインカーなんか信用できない、というのがタイの常識だと考えた方が良いのです。
ですから、私は彼の運転に目をつぶることにしました。
私が何も考えなくても、安全に目的地まで送り届けてくれるのですから、それで充分ではありませんか。
多少早いとか遅いとかあるでしょうけど、そんなのは道路の混み具合でも変わってくるので、余裕を持っておけば良いだけのことです。
そういうように考えることで、私はうちの運転手さんの運転には、まったくイライラしなくなりました。
むしろ、私とほぼ同じくらいの年齢なのに、安い給料でよく働いてくれて、申し訳ないくらいだと思います。心から感謝します。
そういう考え方をするようになると、今度は日本の異常さが見えてきます。
電車が1分遅れたことを理由に、駅員を殴った乗客がいたというニュース。最高のサービスを提供しようとして努力した結果が、客からの暴行なのですよ。
1分の遅れ、一部の間違いも許さないギスギス社会。それではストレスでうつ病になっても当然だと思いましたね。
逆にタイはゆるゆるですが、それでもなんとか上手く回っているのです。
つまり日本の質の高さは、生存のための不安からではないはずなのに、まるでその1点の瑕疵(かし)ですべての価値が崩壊するような不安があります。
だから1分遅れても許せないのです。
必ずしもタイが100%良くて、日本が100%悪いわけではありません。
また、足して2で割れば良いというものでもないでしょう。
私はただ、日本の考え(文化)が絶対ではない、ということに気づいたのです。
こうして、他の考え方もあるということを感じていたころ、絶対的な安心感に包まれるという神秘的な体験をしました。
「そうだったのか!」
腑に落ちると言いますが、まさにそんな感じです。
すべての出来事が自分にとって良いことであるなら、何が起ころうとかまわないのです。
何が起ころうともかまわなければ、何にも怯えることがなく、不安に身を固める必要がなく、自由にのびのびしていられます。
そのとき、そのことがはっきりとわかったのです。
しかし、そんな神秘体験の効果は長続きするものではありません。
「あれはいったい何だったのだろう?」
時間が経つにつれて、元に戻っていくような感覚。
でも、それでも着実に成長(進化)していたのですね。それも後になってみればわかります。
そのころから私は、ブログやSNSなどで自分の考えを表明することが増えました。
自分の真実を語ろうと思ったからです。
表明することによって、他の人とぶつかることもありました。
そのときは、まだ、相手が悪くて自分が正しいという、一面的な見方しかできませんでしたね。
相手も正しく、自分もまた正しいという、思い切った考え方ができなかったのです。
昨年10月から「神との対話」シリーズを精読するようになって、また多くの気付きが得られました。
何度読んでも、また読みたいと思う不思議な本です。
今日から「神との友情(上)」に入りましたが、その冒頭でもまた、今の悩みに直接答えてくれるような文がありました。
その文は、以前からそこに書かれていて、私も何度も見ています。
それなのに、今、また新たな気づきを与えてくれたのです。
それは、「離れる」ことが諸悪の根源だということです。
私たちが「ひとつのもの」であり、その本質に立ち返ろうとしているのなら、その反対の分離は本質から遠ざかるものです。
仏教でも「分別」を悪い意味で用いますが、分け隔てることが、あらゆる問題を引き起こすのです。
都会化することで、人々は密集して暮らすようになりましたが、逆にコミュニティーは破壊されて、つながりがなくなり、孤立化するようになった。
これがまさに都会が抱える問題の根源です。
もっと心理的に近づかないといけません。
親子で、夫婦で、家族で、会社で、地域で。
お互いに関心を持ち合い、相手をまるで自分であるかのように感じる。
そうしないと上手くいかないのだなあと、改めて感じたところです。
私自身、まだまだ発展途上です。
「まだ先があるのか!?」と落胆するのではなく、「おぉ、まだたっぷり楽しめるぞ!」という喜びが大きいですね。
なぜなら、不安がないからです。
不安がないから、変化を楽しめるのです。
変化とは進化です。成長です。そして、生命の本質は変化です。
だから私たちが生きることの象徴である人生は、楽しいものであるし、楽しまないとおかしいでのす。
今、やっとこのレベルまで来ました。
これから、もっともっと先を目指します。
あなたも一緒に、進化の旅を楽しみませんか?
2013年04月08日
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