中学か高校か忘れましたが、古文だったか世界史だったかで、中国の思想について習いました。
その中に、性善説と性悪説というものがありました。
覚えてますか?
性善説は孟子が唱えたものです。一方の性悪説は、それに対する反論として荀子が唱えたものだそうです。
性善説とは、人は生まれつき善だが、成長すると悪行を学ぶというもの。
一方の性悪説はその逆で、人は生まれつき悪だが、成長すると善行を学ぶというもの。
つまり、いずれも人は成長したら善行も悪行も行うということを言っているのです。
世間によくある誤解は、性善説は「人の本性は善だから信じるべき」で、性悪説は「人の本性は悪だから疑うべき」だというものだそうですね。
性善説でも性悪説でも、信じるべきか疑うべきかとは関係がない、というのが本当の意味だそうです。
もともとは孟子の前には、人によって性が善の人もいれば悪の人もいるという説があって、それへの対案として、孟子は性善説を唱えたのだそうです。
それはさておき、孟子によると、人には四端の心という善の兆しが先天的に備わっているのだそうです。
四端の心とは、以下の4つの心です。(Wikipedia「性善説」より)
・惻隠:他者の苦境を見逃せない「忍びざる心」、
憐れみの心 → 仁
・羞悪:不正を羞恥する心 → 義
・辞譲:謙譲の心 → 礼
・是非:善悪を分別する心 → 智
これらの善の兆しの心を磨くことで、それぞれ仁義礼智という徳を備えることが可能になり、君子になるのだと言います。
惻隠の情の説明では、井戸に落ちそうな子どもを見つけたら、自分のことはさておいてでも駆けつけるのが人と言うものだ、という説明がありました。
つまり、自分の命とかもお構いなく、他者を助けようとするのが人の本性だと言うのです。
このことに関して、「神との対話」シリーズではちょっと違った解釈があります。
そもそも善とか悪などという固定的で絶対的な基準はない、というのが基本的な立場です。
何を善と呼び、何を悪と呼ぶかは人それぞれで、時代や地域によって異なるものだからです。
絶対的な善悪の価値観があるのではなく、それぞれの人が自分の価値観を選択することによって、自分とはどんな存在なのかを表明するのだとしています。
では、人の本性をどう考えるのかについて、「神との対話B」に上記の惻隠の情に関連するような記述があったので、そこを引用しましょう。
キリスト教などでは「原罪」と言って、人は生まれながらに罪を背負っているという考え方があります。つまり、人間の本性は「悪」だと言うわけです。そしてそこから、「適者生存」という考えが生まれ、強者(あるいは神の眼鏡に適った善い人)でなければ生き残れないという考えが生まれると言います。
「仲間を助けるためにはできるだけのことをするが、しかし自分自身の生存が問題になったら、まず自分のことを考える。そのためには、ひとを死なせもする。それどころか、自分や自分の仲間が生き延びるために必要だと思えば、他者を−−たぶん「弱者」を−−殺害する。それでこそ、「適者」だと。」
(中略)
「「基本的な本能」が「生存」にあるなら、そして、基本的な性質が「悪」なら、転落しそうな子供や溺れかけたひとを本能的に助けたりはしないだろう。ところが本能のままに行動するときは、どうしようかとは考えない。たとえ、自分の身が危うくなっても助ける。」
「したがって、あなたがたの「基本的」な本能が「生存」でないことも明らかだ。本能も性質も、あなたが何者であるかを、つまり公平と、ひとつであることと、愛を反映している。」
(p.282)
このあと、「公平」という言葉について、「平等」との違いを持ち出して説明します。
そこは省略しますが、要は基本的な暮らしを保証した上での機会の平等が公平だと言うことです。
話を戻すと、善悪という価値観ではなく、「ひとつのもの」「公平」「愛」が私たちの本性だと言っています。
これは、「神=生命=愛=すべて=ひとつのもの」という、「神との対話」シリーズを貫く1つの考え方からすると、当然の帰結かもしれません。
「ひとつのもの」が、自分のすべてを体験的に知るために分割し、忘却によって相対的な世界を創ったとしています。
そうであるから、私たちは「自分らしくない」自分を選択することもできます。
私たちには何でも選択できる自由があるからです。
その自由によって、私たちは何かを選択します。
そして、「これは自分だ」と言うものを「善」と呼び、「あれは自分じゃない」と言うものを「悪」と呼ぶのです。
「人は自分の価値観においては間違ったことはしない」という考えも、ここから来ています。
したがって、ナチスのヒトラーも、本人の価値観にしたがえば悪行をしたのではなく、善行をしたと言うのです。
「なんとかしてくれ!」というドイツ国民の要請に、ヒトラーは応えたのです。だから支持され、あのようなことができたのです。
つまり、当時のドイツの人たちの心が、ヒトラー現象を創ったのだとも言えます。そしてまた、当時の世界の人たちの心が、ドイツの人たちをそういう方向へ追いやったのだとも。
実際私たちは、何が善で何が悪だかはっきりしない出来事に、遭遇することがよくあります。
自分は良かれと思ってやったことが、あとになって周りの状況が見えてくると、なんだか良くないことのように見えてくる。
ですから善か悪かは相対的なものであり、状況が変われば、またその価値観も変わるのです。
そういう体験を通じて、私たちは常により「自分らしい」ことを表現するチャンスが与えられます。
つまり、人生に起こる出来事、問題というのは、すべてより自分らしい自分を表現するチャンス(機会)なのです。
以前が最高に良いと思っても、さらに素晴らしい自分になれるチャンスです。
ですから、悪を批判しないようにと言います。
善と悪は相対的なものです。したがって、悪があるから善も存在できるのですから。
それを悪と判断すること、つまり何を善と呼び、何を悪と呼ぶかは、最高の自己の表明として行うべきことです。
つまり悪は、批判して叩き潰す対象ではなく、単に未熟なのだから、助けて引き上げてあげる対象なのだと言うのです。
私はこの「神との対話」の考え方が好きです。
何か絶対的な善があると考えると、私たちの自由は消えてしまうからです。
どうしてもそこには、したがわされる自分という存在が生じるし、自由を奪われた心には恨みが芽生えるからです。
子どものころ私は、保育園の先生の机の上に、キャラメルが1個置かれているのを見つけました。
おそらく何も考えずに、私はそれを取り上げ、口の中に放り込んだのです。
帰り支度をするとき、口をモグモグしている私を見て、先生は私がキャラメルをつまみ食いしたことに気づきました。
そして軽く、たしなめるくらいのことをしたのだと思います。
その時初めて私は、「なんでそんなことをしたのだろう」と、自分の行為を振り返り、反省したのです。
ただ自分の肉体的な欲求を満たすことしか頭に浮かばなかった。
それが誰のものだとか、取ったら泥棒だと非難されるだとか、まったく考えなかったのです。
私の肉体だけのことを考えれば、美味しいものを見つけて食べることは、善であることに違いありません。
けれども、周りの状況が見えてきたとき、その行為は悪に変わったのです。
私は、自身のそういう経験を愛します。
そういう経験があるから、私はどうすることがより私らしいかを、体験的に知ることができたのですから。
今では、その悪と感じる行為をしたことを、私は良かったと思っています。
ですから、自分の悪も、そして他人の悪も、批判したいとは思いません。
私たちの本性は、「善」でも「悪」でもなく、「愛」なのです。
その愛の素晴らしさを体験するために、私たちは本性が愛であることを忘れた。
今、私たちは「愛」に戻る道を歩んでいるのだし、「愛」であることを思い出そうとしています。
私もそうだし、あなたもそう。そして他のすべての人がそうなのです。
だとしたら、どうしてその途上にあることを批判したり、非難する必要性があるでしょうか?
手を取り合って、助けあって、共に喜びながら帰り道を歩けば良いではありませんか。
般若心経の最後には、みんなで手を取り合って喜んで進みましょう、とあるのですから。
幼い頃、母を迎えに行った私たち兄弟姉妹は、母と一緒に手をつないで、童謡「七つの子」を歌いながら帰りました。
何もなかったけど、楽しかった。
みんなで一緒に我が家へ帰る道は、ただそれだけで楽しいものです。
私たちの人生とは、そういうものではないかと思うのです。
2013年04月02日
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