「鏡の法則」を書かれた野口嘉則さんは、Facebookページに示唆に富んだ内容をよく書かれています。
ときどき「幸せ実践塾」のFacebookページでもシェアしています。
今回、ちょうど桜のシーズンだということで、桜の写真とともに、桜にまつわる話を書いておられます。
昔から、歌によく詠まれている桜です。
それぞれの人が、様々な思いを桜に込めたのでしょう。
そうした歌を紹介した後で、野口さんはこう言います。
たしかに桜は散り際が美しいですよね。
潔く散っていく桜を見ていると、
この世の万物が絶えず変化し続けていること、
そして、形あるものは必ず滅すること
に思い至ります。
だからこそ、今この瞬間のかけがえのなさが
際立つのだと思います。
そして、桜の花を人の命にたとえた歌を紹介するのです。
「散る桜 残る桜も 散る桜」 (良寛さん)
「明日ありと 思う心のあだ桜
夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」 (親鸞上人)
そして、この親鸞上人の歌からは、野口さんが好きなマハトマ・ガンジー氏の言葉が連想されると言います。
「明日死ぬと思って生きなさい」
これを読んだあと、いつものように「神との対話」シリーズを読んでいたのですが、関係するような話が出てきました。
こういうものに偶然はありませんから、私がこういうことを考える必要があったから、魂が導いたのだと思います。
「神との対話B」から、長くなりますが引用しましょう。
神は、輪廻転生があるということを言って、生(この世)から死(あの世)へ、死から生への移動は、自分(の魂)が決めていると説明します。
「どんな魂でも、意志に反した経験が訪れることはない。そもそも不可能なのだ。魂がすべての経験を創造しているのだから。魂に欠けているものは何もない。すべてをもっている。」
(中略)
「特定のかたちにとどまっても、もう何の役にも立たなくなったとき、魂はかたちを変える。自分の意志で、喜んで形を変え、宇宙の車輪の上を進む。大きな喜びを感じながら。」
魂にとっては、生も死も、ともに幸せな経験だと言います。
しかし私たちは死について考えようとせず、わけもわからずに恐れているから、人生が理解できないのだと言うのです。
「どの瞬間も始まったとたんに終わる。それがわからないと、その瞬間のどこがこのうえなく大切なのかわからず、平凡なひとときにしか思えないだろう。」
「どんな交流も、「はじまりが始まった」瞬間に「終りが始まる」。そのことをよく考え、深く理解してはじめて、すべての瞬間の、そして人生そのものの貴重さが充分にわかるだろう。」
「死を理解しなければ、生命は与えられない。理解するだけではいけない。生を愛するように、死を愛する必要がある。」
「これが最後だと思えば、誰かと一緒のひとときが輝くだろう。どの瞬間も、経験するのはこれが最後だと思えば、はかり知れないほど重いものになるだろう。死から目をそむけているから、自分自身の生命を考えなくなるのだよ。」
だから、死を深く見つめることだと言います。死を見つめて見抜くなら、死は幻想の仮面を脱ぎ、その真の姿を見せてくれると言います。
そうすればそこに喜びを加えることができ、幻想としての死を楽しむこともできるのだと。
「死は決して終わりではなく、つねにはじまりだ。死は閉じられたドアではなく、開かれたドアだ。生命が永遠であることを理解すれば、死は幻想で、その幻想があなたの意識を身体に集中させ、身体が自分だと信じさせていることがわかる。だが、あなたは身体ではない。だから、身体が朽ちても、あなたとは何のかかわりもない。」
「死は、真の生命とは何かを教えてくれる。生命は、避けられないのは死ではなく、移ろいゆくことだと教えている。移ろいゆく、それだけが真実だ。不変なものは何もない。すべては変わる。一瞬一瞬に、一時一時に。」
そしてこれが、仏教が「諸行無常」として示したことなのです。
「花が散るのを見て、あなたは悲しむだろう。だが、花は樹全体の一部で、変化してまもなく果実をつけるのだとわかれば、花の真の美しさが見える。花が開いて落ちるのは、樹が果実をつける準備だとわかれば、生命が理解できる。そこを注意深く見つめれば、生命とはそれ自身のメタファー(暗喩)であることがわかるだろう。」
「あなたは花ではなく、果実でもない。あなたは樹だ。あなたは、わたしのなかに深く根を張っている。わたしはあなたが芽生える土であり、あなたの花も果実もわたしに還って、わたしはさらに肥沃な土になる。こうして生命は生命を生み、決して死を知ることはない。」
(p.176 - 180)
茶道では、「一期一会」と言います。
この出会いが、今生の最後の出会いかもしれないと思いながら、心をこめて客をもてなすという心です。
死という幻想があるお陰で、私たちはそういう体験ができます。
本当は分離していない「ひとつのもの」である私たちが、一度しか出会わないかもしれない、という体験ができるのです。
そうすることで、この出会いが、生命と生命の出会いが、どれほど素晴らしく価値のあるものであるかを、実感することができるのです。
そう考えるなら、死は忌み嫌うものでしょうか?
むしろ、感謝しなければならないもの、感謝したくなるものとも言えます。
幻想を幻想と見抜くなら、死は私たちの体験に役立つだけで、私たちに苦しみをもたらすものではありません。
ですから、死をしっかりと見つめるようにと、神は言うのでしょう。
2013年03月30日
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