「お金儲けの方法は、お金をたくさん儲けている人がよく知っている。だから、お金儲けをしていない学者の言うことを聞くより、お金持ちに尋ねるのが正しい。」
こんな話をよく耳にします。
特に情報商材などのセールスレターなどで。
それもたしかに一理あるのですが、私は、必ずしもそうではないと思っています。
たとえば、こんなことも言われますよね。
「名プレーヤー、必ずしも名監督ならず。」
野球の場合が多いですけど、プロ選手として活躍した人が、必ずしもリーダーとして成功するとは限らないのです。
つまり、自分でやることに長けている人と、それを教えることに長けている人は、一致するわけではないということです。
そうであるなら、お金儲けの上手い人が、必ずしもその教え方が上手いわけでもありませんよね。
もう1つ、こんなことをよく言われます。
「それを教える者が、もっともよくそれを学ぶ。」
どういうことかと言うと、教わっている人よりも教えている人の方が、その教えている内容を学ぶことになる、と言うことです。
実はこれ、私は経験上、よくわかるのです。
小学校、中学校のころですが、私は勉強がよくできる子でした。
特に算数や数学は抜群で、授業中に困るようなことはまったくありません。
しかし、同じクラスの中には、理解の遅い生徒もけっこういます。
授業は、理解が遅い生徒のペースで行われるため、私は暇で暇で仕方ありません。
すると先生がこう言うのです。「赤木くん、隣りの子に教えてあげてね。」
私は、理解が遅い子がわかりやすいように、丁寧に教えます。
するとそのことによって、私はその内容がより深くわかるようになったし、覚えようとしなくても覚えられたのです。
そのお陰で私は、算数や数学の復習をすることが全くなかったのに、優秀な成績を保てたのです。
また、広島大学の時には中学生の家庭教師というアルバイトもしました。
中学校の教科書なんて、もう何年も見ていません。教える内容も、一から勉強しなければならない感じです。
あることを教えようとすると、「なぜそうなっているのだろう?」という疑問が次々に出てきます。
それらについても調べていると、けっきょく、教えることの何倍も勉強することになったのです。
こうした経験から言えるのは、「本当にそのことを学びたいと思うなら、誰かに教えようとするのが一番だな。」と言うことなのです。
つまり、そのことを深く知っているから教えるのではなく、深く知りたいと思うから教えるのです。
このことは、「神との対話」シリーズにも書かれていました。
私たちは、知っていることしか体験できません。ですから、「経験」の前に「知る」ことが大切なのです。
たとえば、もし自分が金持ちになりたいのであれば、その「経験」をしたいのであれば、その前に「自分は金持ちだ」ということを「知る」必要があるのです。
けれども私たちは、経験していないことを知ることができません。
そこにジレンマがあるのです。
そこで神は、私たちは本当はすべてを知っていると言います。
そしてもし、それを知っているということを知りたいのであれば、誰かに教えることだと言うのです。
教えるためには、それを知っていなければなりません。
したがって、教えるという行為をすることによって、自分がそれを知っているということを経験する(=知る)ことになるのです。
そして、自分がそれを知っていることを知ったのですから、「それを知っている」という経験が導かれると言うのです。
わかりますか?
私たちは「忘却」によって、知っていることを忘れているだけです。
そのことを認め、本当は知っているんだよと気づくことで、その知りたい(=忘れている)知識が与えられる(=思い出す)のです。
ですから今は知らないことであっても、それを知って体験したいと思うなら、それを教えるべきなのです。
と言うことで、私はこうして幸せや愛について語っています。
それは私自身がもっともっと知りたい(=思い出したい)からです。
以前と比べたら、随分と進歩したと思っています。何が起ころうと、幸せでいられる自信はありますから。
でも、昨日の記事の「巡るサービス」でも書いたように、ついつい現実のドラマにのめり込んで、自分を見失ってしまうこともあります。
ですから、もっともっと進化したいのです。
私が誰かに教えるのは、私自身がもっともっと進化するためです。
そして、そうやって私が私のために進化しようとすることが、また他の人のためにもなると思っているのです。
2013年03月21日
この記事へのコメント
コメントを書く
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。



