3月11日は、東日本大震災があった日です。
あれからもう2年が経過したのですね。
記憶に残る大きな災害や事件・事故としては、上位3位以内に入るものだと思っています。
あの日、私はオフィスで仕事をしていました。
インターネットのニュースで大地震があったことを知りましたが、最初は、その前に新潟などであった地震と同様なものだと思っていたのです。
続いて津波警報が発令されましたが、またいつものように、津波が来てもたいしたことはないのだろうと、まったく平和ボケした気分でいたのです。
そんな私が、「これはただならないことだ」と感じたのは、「大津波警報」という文字を見た時でした。
今まで見たことがない「大津波」という文字。地震のマグニチュードも当初のM7クラスからM8クラスへ引き上げられました。(最終的にはM9クラスになりました。)
それからニュースを見ても、被災地の情報はあまり入ってきません。
それよりも、東京の帰宅難民のことが大問題になっていました。
翌日になって、やっと被災地の情報が入ってくるようになりました。
そのとき初めて、とんでもないことが起こったとわかったのです。
その日は仕事そっちのけで、ネットに流れるニュースを追っていたように記憶しています。
あれから2年ですか。本当に早いものです。
自然災害を天罰とか言って、神や仏が罰を下していると考える人もいるようですが、私はそういうのは信じません。
なぜなら、神や仏がそんなことをする必要性がないことが、論理的にわかっているからです。
では、なぜそういうことが起こるのか?
「神との対話」シリーズでは、それは人間の集合意識によって創造されるとあります。
どんな出来事も偶然には起こらないし、個人的な経験というレベルで言うなら、その人の承諾なしには起こらないと言うのです。
つまり、自然災害というものも、私たちグループのどこかのレベルでの思考によって起きていますが、それによって知り合いが被災するとか、自分自身が被災するなどの個人的な体験は、その人自身のどこかのレベルの思考が原因なのです。
そう聞くと、被災者や知人が被災した人は辛いかもしれません。
天罰と言われるのと同様に、「自分が何か悪いことをしたからだとでも言うのか!?」と、怒りをぶつけたくなるでしょう。
でも、「その人が悪い」という意味での原因ではありません。
このことは、簡単に説明できることではなく、また、簡単には納得できないと思います。
ですからここでは、「被災した人が悪い」ということは100%ない、ということだけわかってください。
私たちは、起きてしまった出来事を変えることはできません。
けれども、その出来事に対する経験を変えることはできます。
経験とは、その出来事によって何を感じたか、ということだからです。
出来事はすべて、私たちに何かを経験させるために起こります。
そして何を経験するかを決めるのは、100%私たちの意識、つまりその出来事に対する考え方なのです。
あの出来事を天罰だと考えることもできます。
そうすれば私たちは、「自分は罰をくだされるほど悪い人間なのだ、罪深い人間なのだ。」というように感じ、自己卑下したり、罪悪感を感じるでしょう。
出来事とそれに付随する感情が、私たちの経験なのです。
しかし、同じ出来事に対して、別の考え方を選択することもできます。
たとえば孟子にあるように、あれは天が与えてくれた試練で、私自身を成長させ、世の中に役立つ人間として育てるためのものだったのだと考えることもできます。
もしそう考えるなら、自己卑下したり、罪悪感を感じたりはしないでしょう。
むしろ、この経験を生かさずにはおかないと、奮起するでしょうね。
両者の違いは何なのでしょうか?
それは、起きた出来事に対してどう考えたか、つまりどういう意味を与えたかということの違いです。
孔子は、君子であっても困窮するような出来事に遭遇すると言いました。
ただ君子は、そういう出来事に遭遇しても狼狽しないのだと。
被災した事実を変えることはできません。
けれども、その出来事を生かして、前に進むことはできます。
「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」でも書きましたが、たいへんな出来事が起こったときこそ、冷静になって考えるべきです。
私たちが、自分自身の人生をより良いものにしたいと願うなら、出来事に対する自分の考え方を点検することです。
3.11の記憶は、これからも消えることはないでしょう。
私はその出来事を、単に不幸な忌まわしい出来事としてではなく、日本の将来のために役立つ出来事として考えたいと思うのです。
2013年03月13日
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