昨日読んだ中に、ふと過去の記憶を呼び覚ますものがありました。
今日は、そのことを書きます。
以前の私は、ともかく周りの目を気にして生きていました。
ですから、学校などでは優等生です。
ルールは必ず守るし、先生の言いつけには従います。
親にとっても、先生にとっても良い子だったことは間違いありません。
しかし、それで私が幸せを感じていたわけでもありません。
たしかに優等生として褒められることは喜びでした。
けれども、ルールを守らない人たちへの嫌悪感、それを放置している先生たちへの憎しみなども、心の中に抱えていたのです。
今でこそ、エスカレーターに片側一列で並んで乗るのは異常だと言う私ですが、日本にいるときは、率先してそれにしたがっていました。
電車に乗るとき、乗降口の左右に分かれて並んでいる時など、降りる人を待たずに乗り込む人を見ると、どついてやろうかと思ったくらいです。
そのくらいルールに対して厳格で、ルールを守らない人を憎んでいました。
当然、ストレスの塊だったのです。
そしてまた、ルールがない環境に置かれると、とたんに身動きが取れなくなりました。
「いったい、どうしたらいいんだ?」
上下関係とかがはっきりしない雑多な人間関係の職場に置かれたとき、私は何をどうしたら良いかわからず、とまどってしまいました。
そして何も仕事ができないでいる私を、私の管理者にあたる他社の人が批判しました。
「赤木さんは、SEとしての仕事がまったくできてないよ。」
それは事実でした。事実だとわかっているから、よけいに悔しかったのです。
「ルールがわからないんだから、しょうがないじゃないか。だったらルールを教えてくれよ。」
今なら逆切れと言うのでしょうか。そう反論したい気持ちを押し殺し、私はその管理者に対しての憎しみを抱いたのです。
そんな私の記憶を呼び覚ます内容が、「神との対話A」に書かれていました。
ちょっと長いですけど、引用します。
「たいていのひとは何も考えたくないのだ。自分で考えなくてもいいように、指導者を選び、政府を支持し、宗教を採用する。「気楽にさせてくれ。どうしたらいいか、教えてくれ。」」
「たいていのひとは、それを望んでいる。どこに座ればいいか?いつ立てばいいか?どんなふうにあいさつすればいいか?いつ支払いをすればいいか?どうすればいい?ルールは?限界は?教えてくれ、教えてくれ。誰か教えてくれれば、そのとおりにするよ!それから、うんざりし、幻滅する。すべてのルールに従い、言われたとおりにしたのに。なのに、どうして、うまくいかないんだろう?どうして、こんなにつまらないのか?どうして、何もかもばらばらになってしまうのか?あなたが精神を、創造のための最高の道具(ツール)を捨てた瞬間に、ばらばらになるのだ。」
「もういちど精神とつきあうべきだ。精神と道連れになりなさい。そうすれば、それほど孤独ではなくなる。精神を養いなさい。そうすれば、飢えなくなる。」
(p.138)
まさに、昔の私の姿です。
ルールを求め、他人の指図を待って、そつなくこなすことだけを考えて生きてきました。
そうしなければ、生きていけないと感じていたから。そういう不安を抱えていたからです。
そして、そうしている自分のことを、おそらく自分らしくないと感じていたのでしょう。
だからその責任を他人に押し付けた。楽しい気分になれない原因を、すべて他人に求めたのです。
しかし、これでは他人に翻弄されるだけの人生です。
自分が自由に選択し、自分の人生を創るという生き方ではありません。
私自身が、私の魂が、喜べなくても当然だったのです。
そのことが、今になってみればわかります。
「ルールなんかくそくらえ!」
もし今あなたが、以前の私のような苦しみの中におられるのでしたら、ちょっとだけ考え方を変えてみませんか?
少なくともルールだから守るのではなく、自分が守る必要があると考えるから守るというように、考え方をシフトするのです。
そうすれば、ルールに縛られた被害者を演じなくて済みます。
交通規則を守るのも、会社に遅刻しないで出勤するのも、それがルールだからではなく、ルールを守るのが自分らしいから守る。
外見的には同じでも、意識の中ではまったく異なります。
ルールの奴隷から、ルールの主人へと自分自身を引き上げることになるのですから。
人生にあるのは常に機会です。義務ではありません。
自分とはいったい何なのか?
それを表現する機会なのですから。
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