朝からどんよりと曇っていて、今にも雨が降りそうでしたが、幸いに天気が持ちこたえてくれました。
その代わり、蒸し暑くてサウナ状態でしたけどね。
12時に練習を終え、昼食をとりにレストランへ向かうときに降り始め、到着したときは土砂降りに。
こういうスコールは久しぶりです。
昼食が終わって外に出ると、雨はほとんどやんでいました。
本当にラッキーです。
部屋に戻って、また「神との対話」シリーズを読んでいました。
そのときふと、頭に浮かんだことがありました。
それは、私がかつて、「損を受け入れよう」と決めた時のかすかな記憶です。
すっかり忘れていましたが、たしかにそういう決断をしたのです。
そのとき、どういう出来事があったのか覚えていません。
でも覚えているのは、起こる出来事の中で、「上手に生きよう」とすることに疲れたのです。
たとえば、誰もがやりたくないことだけど、誰かがやらなければならないことがあったとしましょう。
最初に「あ、それ、私はできないから。」と言って、いち抜けたと抜けられる人がうらやましかったのです。
だって、損なことをせずに済むわけですから。私だって、できることなら損はしたくありませんよ。
でも、それをすると「ひどいやつ」と思われるのではないかと心配で、そういう自分勝手(私はそう考えていたのです)なことができませんでした。
また、最後に引き受けさせられる人のことを思うと、その苦悩が伝わってくるようで、それを無視することも苦しかった。
損することより得することをしたい。けれども、それをはっきり言うと角が立つ(=悪く思われる)。そのジレンマがあったのです。
もし自分が得することをやってしまうと、今度は他人から批判されるのを防がなければならないと感じます。
自分のやったことを正当化しなければならないのですが、それがまた疲れるのです。
そういうことをあれこれ考えた末、私は決めました。
「いい。もう損してもいいから、やらなければならないことがあったら自分がやろう。そう決めておけば、誰も恨まなくて済む。少なくともその方が気持ちがいい。」
まだ「神との対話」を読む前だったと思いますが、私はそんなことを考えたのです。
もちろん、すぐにそれが実行できたわけではありません。
けれども、何度もそういう出来事を経験する中で、少しずつそういう生き方が身についてきたように思います。
前にも書きましたが、タイに来ることを決めたのもそうでした。
私は東京からJターンで岡山の会社に転職したのです。
実家のある島根県に近く、それでいて適度に都会的な街。岡山市での生活は、私の希望どおりだったのです。
だから一生、そこに暮らすつもりで分譲マンションを購入しました。
そんなときに、タイへ赴任する話が持ち上がったのです。
上司は、タイでの仕事のことは話すものの、私に行けとは一言も言いません。
おそらく、それが大変な負担だとわかっているので、言い出せないでいたのだと思います。
そう感じたから、私から言ったのです。「私が行きましょうか。」
私のいた会社で、どう考えても適任者は私しかいませんでした。
独身であること、システム開発に精通したSEであること。
タイという国のこともよく知らず、英語も話せないのに、私は引き受けようと決めたのです。
自分が得をしたいという気持ちは、まったくありませんでした。
いや、考えてしまうと引き受けられなくなると感じたから、あえて考えなかったように記憶しています。
ただそうすることが私らしいことだと思ったから、私の魂の声にしたがうことにしたのです。
その結果が今の私です。
経済的には、赴任する前よりもかなり豊かになりました。
今は少し傾いていますけど。(笑)
でも、それも何とかなると思っています。
それに何より、とても幸せな生活を送っています。
今、ソフトボールチームのリーダーをやっています。
リーダーと言えば聞こえがいいですが、要は裏方です。
裏方の仕事は、練習や試合の進行、グランドの手配、他チームとの交渉、用具の管理、チームメンバーへの伝達、会費の管理など。
以前は一時期、これをすべて私が受け持ってしまったことがあり、さすがにパニクってしまいました。
それで、他のメンバーにも少しずつ負担してもらうようにして、何とか続けています。
メンバーがソフトボールを楽しむためには、誰かが裏方をやらなければなりません。
そういう人がいないと、集団はなりたたないのです。
誰もがやりたがらない裏方です。私だって、本心で言えばやりたくはありません。
負担ばかりあって、何の見返りもないのですから。
活動日にだけ気楽に参加して楽しめれば、こんな楽なことはないでしょう。
でも、私の魂はそれを望まないのです。
そのことは、私自身がよーくわかっています。
ですから、損とはわかっていても、裏方をやろうと決めたのです。
それでも、他のメンバーが思ったように動いてくれないときなど、イライラすることもたまにあります。
でもそんな時は、そういう出来事があるからこそ、その中で私らしさを表現することができるのだと、思うようにしています。
目先の損得にとらわれず、魂が喜ぶ生き方をしよう。
その決意を新たにするのです。




なるほど。確かに僕の周りにも、「私できません」と言う人たくさんいます。
なんでやってもみないんだろう??
と不思議に思ってしまいます。
やってみる事自体、損ということはないですよね。
経験になるので。
ただ、それに時間を取られることが、目先の損にはなるかな、と思います。
こんにちは。
コメントを書いてくださって、ありがとうございます。
「できない」と言ってやらないのは、損と感じている場合もあるでしょうし、ただ不安なだけかもしれませんよ。
やってみて上手く行かなかったとき、自分が能力がないことが明らかになるのが不安だとか。
つまり、失敗することを怖れているのです。