2013年02月27日

同じ事情で相反する判決が

昨日、ネットでニュースを見ていたら、興味深いものがありました。

それは、大阪市で起こった中年の男が実の姉を殺したという殺人事件の、二審判決を伝えるものでした。

犯人の男は発達障害の一種のアスペルガー症候群と認定されていました。

そして一審の判決では、この病気のために再犯の恐れがあるが、社会に受け皿がないため、なるべく長く社会から隔離しておくことが社会の利益になるとして、求刑より4年長い懲役20年が下されたのです。


この一審判決を報じるニュースを見たとき、私は違和感を覚えました。

社会がその責任を果たさないという理由で個人の自由を奪って良いものでしょうか?

現在の法律では、精神障害などで本人に責任能力が足りないと判断されると、それに応じて罪に問われる度合いも減らされることになっています。

それが良いかどうかは別として、その法体系からしても、矛盾があると感じました。


案の定、日本社会福祉士会や日本弁護士連合会なども、「障害への無理解と偏見に基づく判決だ」として、抗議の声を上げました。

そして迎えた大阪高裁での二審判決だったのです。

判決では、「犯行の動機に障害が大きく影響しており、責任を軽くする事情ととらえるべきだ」として、一審とはまったく逆の見方を示しました。

そして求刑よりも短い懲役14年を言い渡したのです。


この一連の出来事で私が感じたのは、裁判というのは、かくも裁判官の価値観に左右されるものだ、ということです。

同じ事情を考慮しながら、かたや懲役期間を増やすのが社会的な正義として妥当だと判じ、もう一方は逆に減らすのがふさわしいと判断したのです。

裁判のように、法と正義に基づいて厳格に判断されるものでさえ、このように結果が分かれます。

そうであるなら、一般的な私たちの価値観が、バラバラであっても当然のことだと思えませんか?


私が裁判で面白い(おかしい)と感じることが他にもあります。

それは、被告が素直に罪を認めたかどうかで、刑罰の重さが変わるということです。

やってもいないことや、あるいはそれを罪(=法律違反)だと思っていない被告が、裁判で無実を訴えたとしても、判決が有罪なら、反省する態度が見られないとして刑罰が加算されます。

これって、おかしなことだと思いませんか?


もしこれが正しいとするなら、検察によって起訴されたら、争わない方が得だということになります。

そして実際にそうだから検察や警察は、「素直に認めれば罪が軽くなるぞ」と言って、自白を誘導するのです。

そのしつこさに耐え切れず、また自分が認めさえすればすべてが丸く収まるのだという思いから、気の弱い人は認めてしまうことになるのでしょう。


「本当にやってないなら認めるな。もし認めたなら、認めたやつが悪いんだから、自業自得だよ。」

私の周りにも、そういう価値観の人はいます。

それも一理ありますが、私は同意できません。


そもそも刑罰とは、何のためにあるのでしょう?

再犯防止の抑止力ですか?

もちろん、その一定の効果はあることを認めます。

けれども、万全でないことだけは確かです。

ですから世の中から犯罪がなくならないのですから。そして、再犯も非常に多いです。

そして、抑止力と言うなら、反省しているかどうかで罪が変わるのはおかしなことです。


では、更生させて社会復帰させるためのものでしょうか?

名前ではなく番号で呼ばれるような、非人間的な扱いをされる刑務所が、更生に役立つとは思えません。

せいぜい、「二度とここには来たくない」という抑止効果が生まれるかどうかで、とてもシステム的に更生を促すものになっているとは思えないのです。

そして、もし目的が更生させて社会復帰させることであるなら、刑期は更生するまででなければおかしな話です。


つまり、今の裁判と刑罰という社会システムは、矛盾だらけであるにも関わらず、単にそれがないよりマシだろうくらいの感覚で運用されているとしか思えません。

ですから、判決で有罪になったからと言って、まるで人間ではないかのように非難されるのもおかしいし、少なくとも私はそういう気持ちを抱きたくはありません。

犯罪を犯した人であっても、その人にはその人なりの理由があり、その人の価値観にしたがえば間違ったことはしていないのです。


本当は、その人の価値観を検証し、それをどうすれば変えてもらえるかを一緒に考え、社会全体の資産とすべきものだと思います。

犯罪者を隔離し、除け者にして、社会から葬ることでは、犯罪というものはなくなりません。

それはもう長い歴史が示しています。

そんな社会を、これからもずっと続けて行きたいのでしょうか?

いつまでも犯罪者に怯えながら暮らし、安全のために多大なコストを負担する社会で過ごしたいのでしょうか?

子孫に、そういう社会を残したいのでしょうか?


私は、それらの質問にNOと答えます。

ですから微力であっても、理想を追求していきたいと思うのです。

そのためにはまず自分から。自分が理想的な存在になることが、まず重要なことだと考えています。

 

今読んでいる「神との対話」には、こういうことが書かれています。

不安でなければ正しい者にならず、正しいことをしないのか?おどされなければ、「善良」にならないのか?」(p.62)

抑止力というもので恐怖を与えて、ある一定の価値観にしたがわせるやり方は、人間性を無視したものです。

このようなやり方は必ず歪(ひずみ)を生み出すでしょう。

すぐに手放せとは言いませんが、もっと人間性に基づいた方法があるはずだし、そちらへシフトすべきだと思います。


また、「神との対話」の中で神は、人間に求める戒律(規則)というようなものはないと、以下のように言います。

十戒などというものはない。

(中略)

わたしが誰に戒律をまもれと命ずるというのか?わたし自身に?それに、そんな戒律がどうして必要なのか?わたしが欲するものは何でも存在する、そう言ったではないか?それなら、どうして誰かに戒律をまもれと命ずる必要があるのか?

それに、もしわたしが戒律を課すなら、当然まもられるはずではないか?どうしても命令したいと思ったくせに、命令がまもられるかどうか、なりゆきを見ているなんて、おかしくはないか?

(中略)

わたしは自分の姿をかたどり、自分に似せてあなたがたを創造し−−祝福した。そして、あることを約束し、言質を与えた。前にも話したように、あなたがたがわたしとひとつになる時がきたときはどうなるか、という約束だ。

(p.129-130)


このように言って、モーゼの十戒は、実は神が人間に与えた言質だったと言います。

すなわち、「殺すな」という命令ではなく、「殺さなくなるだろう」という兆候です。

「盗むな」ではなく、「盗まなくなるだろう」ということです。

そしていずれ人間が成長したとき、そうなると約束したのです。

ですから、人間性の進化を通じてしか、犯罪のない世の中は生まれないと思うのです。


夢物語のように思いますか?

そうかもしれません。


でも法華経には、仏が人間に素晴らしい約束をしたことが書かれています。

それは、私たちは今後何億回、何兆回という生まれ変わりの後、一人残らず救われて仏になるというものです。

この素晴らしいところは、「必ず救われる」という約束です。ハズレはないのです。

ですから、大いなる希望を胸に、生きていこうと思います。


なお、裁判の問題に関しては、以下の記事でも書いていますので、合わせてご覧ください。

「生命の尊さを考える」
「罪を着せることが目的ですか?」
「人はみな自分が正しいと信じている」
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:32 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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