58歳とは思えない筋肉隆々の方ですが、けして怖い方ではなく、気さくな方です。
昨年、タイに来られるときに知り合いを通じて紹介され、それ以来、Facebookでつながっていました。
インターネットで月に500万円以上の収入を得たこともあるという、すごい方なのですね。
昨日は、タイと日本を行ったり来たりしながら生活したいと考えている人のためのアドバイスがほしいと言われ、対談させていただきました。
私は映っていませんが、対談の動画を録画されたので、近々、有料で公開するような話をされてましたね。
気になる方は、山田さんのメルマガに登録しておかれると良いでしょう。
昨夜は、また妻と一緒に映画を見ました。
ダイ・ハードです。ウイリー・ウイリアムスが、父親役で出ていましたね。懐かしいです。
ネタバレになるから詳しくは書きませんが、アクションは十分に楽しめました。
ただ、初期のダイ・ハードにあったような、ウイリーが半ベソをかきながら、愚痴りながらも悪に立ち向かうという感じではありません。
やはり父親としての責任感でしょうか。
「おまえ、何やってるの?こうすればいいんだよ。」
そんな感じで、ひょうひょうとやってのけます。
まあ、人は変化するものですから、映画の登場人物としても、変化していくのでしょうね。
映画の前に、韓国料理屋で焼肉を食べました。
この日は年に4回あるブッダの日(仏教上の重要な祭日)で、ホテル以外は酒類の販売が禁止されます。
まあ、原則的にということですけどね。
そのため、歓楽街は休みのところが多かったと思います。

それなのに、ビールを飲ませてもらいました。
このビルの上がホテルになっているから、このレストランはホテル内のレストランと同じ扱いになっているのかもしれませんね。
飲めないと思っていただけにラッキーでした。
さて、前置きが長くなりましたが、今日の本題です。
例によって、毎日読んでいる「神との対話」シリーズについてです。
一回り終わって、また最初の「神との対話」を読んでいますが、この本を読むのはもう5回目くらいだと思います。

前回は青いボールペンで線を引きながら精読したのですが、今回は赤いボールペンで線を引いています。
面白いことに、前回引いたところとは別の場所に線を引くことがけっこうあります。
それだけ、読むごとに感じ方が変わっているということでしょうね。
昨日から今朝にかけて読んだのは、幸せな人間関係を築く方法でした。
p.164から書かれていますが、p.169まで読みました。
まず驚くべきことは、人間関係においては自己中心的であるべきだと言うのです。
この表現だと、おそらく多くの人は勘違いするでしょうね。
でも、よくよく読んで理解すると、なるほどと納得するのです。
自己中心的という意味は、相手との関係の中でも、自分が何を考えているのか、どうしたいと思っているのかということに関心を払うということです。
たとえば相手が言うことを聞かないとき、「何で言うことを聞かないんだ!」と怒るのは、怒って相手を変えようとする行為です。
つまり、関心が相手に向いているのであって、自分に向いているのではありません。
ですから、自己中心的になるという意味は、まずは自分の感情に注目し、しっかりと受け止めることです。
「あー、今自分は怒っているんだなあ。どうして怒っているんだろう?相手が言うことを聞かないと、どうして怒りの感情が湧いてくるんだろう?」
そういうように、常に自分のことに注意を払うということなのです。
また、こういうことが書かれています。
「ほとんどのひとは、相手との関係で何を与えられるだろうかと考えるのではなく、何が得られるだろうかと考えて、関係を結ぶ。」
(中略)
「「あなたを失望させたくない」ばかりに、相手はほんとうの自分らしくない努力をし、自分らしくない行動をしようとして、やがてはそれに耐えられなくなる。相手は、あなたの期待を満たせなくなる。割り当てられた役割を演じられなくなる。そこで、恨みが生じる、怒りが湧き起こる。」
(P.165-166)
どうですか?核心をついていると思いませんか?
相手を愛すると言いながら、実は愛されたいと願っているのです。
愛されたいという願いを叶えるために、その取引材料として、愛そうとするのです。
ですから、思ったような愛が得られないとき、取引材料である愛を惜しむことで相手を脅して、相手の愛を得ようとします。
「言うことを聞かないなら、ママはもう知りません。勝手にしなさい!」
そう言って子どもを叱るとき、それは子どもから愛(=従順)を得られないから、代わりに自分の愛を与えないぞと脅して、従わせようとしているのです。
「いつも私から電話をして、あいつはちっとも電話をしてくれない。そんなに無関心な態度をとるなら、浮気しちゃうぞー。他のボーイフレンドと会ってみようかな。」
そう考えるとき、彼氏からの愛(=関心)を得られないから、代わりに自分の愛がなくなるぞと脅すことで、彼氏の愛を引き出そうとしているのです。
こういう相手に対する強制は愛ではないし、相手の自由を奪うものです。
相手がその人の愛を必要としている場合、仕方なく自分らしさを捨て、その人にしたがうかもしれません。
けれども、それは長くは続きません。人は、自分らしく生きないことには耐えられないからです。
そして、自分らしくない生き方をさせようとした相手を恨むことになるのです。
あるいは、そういう生き方をしてしまった自分を恨み、自分を愛せなくなるのです。
このように、人間関係の破綻は、相手に関心を払うことによって生じると言います。
相手がどう考えるとか、どう行動するとかに関係なく、そういう出来事に対して自分がどう考えるかに常に注目する。
それが、人間関係を役立てることになるし、幸せな人間関係を築くコツだと言うのです。
いかがですか?なかなか奥深くて、核心をついていると思いませんか?
この「神との対話」ですが、買ったのはおそらく1997年の10月くらいではなかったかと思います。
と言うのは、この本は初版で、発行が1997年9月30日となっているからです。

最初に読んでから、もう15年が過ぎたのですね。
本はボロボロですが、内容はいまだに色あせていません。
これからも、読み続けたいと思っています。