そんな私でも、時には落ち込むこともあるし、不安にもなります。
けれども、そういう感情を引きずらないようにしています。
それは、幸せの実践を通じて、日々刻々、自分の思考を問い直すことによってです。
瞬間的に湧き上がるマイナスの感情はあっても、それを持続させません。
それができるのも、理屈で本来の姿(私の真実)を理解しているからです。
また、つい忘れてしまっていても、すぐに思い出せるような習慣を持っているからです。
だから理論と実践が重要だと、私は思うのです。
その私の実践についてお話しましょう。
「神との対話」シリーズを毎日少しずつ精読するという習慣は、本当に役に立ちますね。
10月から始めて先日まで約4ヶ月半でシリーズ12冊を読み終えました。
1冊が約300ページあるとすると、1日約30ページ弱です。
忙しい日は、本当に朝の10分くらいしか読めませんが、帰ってからじっくり読めると、寝る前に30分は読みます。
週末には、1日に100ページ読むこともあります。
私自身はそれほど読書家とも思っていません。
ですが、こうしてみると、1ヶ月に約3冊のペースです。
これ以外にも1〜3冊くらいは毎月読みますから、月に5冊は読んでいるでしょうか。
他でも書いていますが、読書というのは本当に安くて有効な投資だと思います。
月に5冊だとすると、全部を新品で買っても1万円以下です。
しかも、同じ本を何度も読み直せますからね。
最近ちょっと落ち込んでいたのも、「変えれば、変わる」を読んで、完全に復活しました。
その中の究極の言葉は、これでした。
「変化はすべて良いものだ」
生命は、それ自体が持続するために変化します。
それは生命の目的に適っています。
そして生命の目的とは、進化することです。
したがって変化とは、すべて生命が進化するためのものなのです。
私たちの目には、一見、悪いことのように見える変化があります。
けれども、それが本当に悪いことかどうかは、後にならないとわかりません。
そのことを、「人間万事塞翁が馬」という故事が示しています。
それなら、どうして目の前の変化を「悪いこと」と決め付けなければならないのでしょうか?
「これが幸いの兆しにならないとも限らないさ。」
そう考えることだってできるはずです。
「そんなの気休めだよ。」
そう思われますか?
たしかに、そうかもしれません。
そうかもしれませんが、そうだとしたら、どうだと言うのでしょう?
逆に心配したら、何か得なことがありますか?
得なことがないなら、やめた方が良いと思いませんか?
それだけのことですよ。
多くの人は、感情は自然に発生するもので、自分で制御できないと考えています。
あるいは、たとえコントロールできても、それはよほど修行を積んだ人だけで、凡人には無理だと思っています。
そういう信念を持っているから、本当の姿が見えないのです。
本当は簡単にコントロールできるかもしれない。
そういう可能性を、少しは受け入れてみませんか?
その可能性を受け入れることが第一歩になります。
可能性を受け入れれば、その仕組を調べたいと思うでしょう。
そしてそれが理屈に合うなら、そのとおりにできるようになりたいと思うでしょう。
そして練習を繰り返すことで、最初は難しかったことも、徐々に簡単にできるようになるのです。
「千里の道も一歩から」と言います。
成功するコツは、第1に「始めること」です。
第一歩を踏み出すことです。
そして第2に、「続けること」です。
成功するまで続けることで、必ず成功するのです。
私たちは、ただ偶然にこの世に生じた無価値なものではありません。
多くの人々が証言しているように、自分で生きる環境を選んで生まれてくるのです。
つまり、必然的なのです。
必然的ということは、そうするだけの価値があるということです。
そんな価値のあるものが、どうして意味のない人生を送る必要性があるでしょうか?
ですから、どんな人生にも素晴らしい価値があります。
それがたとえ不遇の死を遂げるものであっても、寝たきりになって身動きできないものであっても、人生には価値があるのです。
そんな人生における変化が、悪いことであろうはずがありません。
生きる環境さえ自分で選ぶ魂が、どうして悪い変化を自分に引き起こすでしょうか?
魂への絶対的な信頼を取り戻しましょう。
私たちの本質は身体ではありません。
身体は、魂がこの世での仕事を効果的に行うための道具です。
良い仕事人は道具を大切に扱い、大事にしますが、その道具が壊れても、良い仕事人でい続けます。
だから、どんな変化が起ころうともいいじゃありませんか。
現れた出来事に対して、こう言いましょう。
「これでいいのだー!」
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