タクシーで1時間弱走ったところにある牧場で、約40分間の乗馬体験をさせてもらったのです。
到着したとき、私たちが乗る予定の2頭の馬、ハルとテリーは、並んで飼葉を食べていました。

あまりにムシャムシャと食べているので、引き離して歩かせるのが大変なほどでしたよ。
相当にお腹が空いているのか、それとも、餌を見たら食えるだけ食わないと気が済まない性分なのか。
それはわかりませんが、ともかく食べたくて仕方がない感じでした。
周回コースの中にも、ところどころに干し草が落ちていたりするのですが、そうなるともう、立ち止まって食べ始めるのです。
いくらお腹をかかとで蹴っても、歩こうとはしません。
当たり前のように思いますが、考えてみると不思議ですよね。
だって、私たち人間にとって、干し草なんかちっとも食べたくはないからです。
馬にとっては大好物でも、人間にとっては何の価値もないもの。
一方、晩飯で食べた刺身がとっても美味しかったのですが、馬にとっては何の価値もないものなのでしょうね。

乗馬の途中で、馬は立ち止まって糞をします。

せっかくの純白の世界が、1点の黒で台無しですよね。
「きったないなあ。」
そう思うこともできますが、馬にとってはどうでもよいことなのでしょう。
周回コースですから、糞をした場所にまた戻ってきます。
すると馬は、そこに糞があるとかどうとか関係なく、平気で歩いていきます。
馬にとっては、雪も糞も同じようなもので、美しいも汚いもないのです。
「それは馬だからだよ。馬と人間は違う。」
そう思われるかもしれませんが、本当にそうでしょうか?
では、どの段階からそういう決定的な違いが生まれたのでしょう?その理由はなぜですか?
たしかに、馬と人間とでは、感じ方が大きく異なっているでしょう。
けれども、問題の本質はそういうことではなく、「そもそもこの世に存在するものに、美しいとか汚いとか、そういう差異は存在しない。」ということだと思うのです。
ただ雪があるだけだし、ただ糞があるだけなのです。
それを見たとき、「美しい」と思うのか、それとも「汚い」と思うのかの違いがあるだけで、そのものに「美しい」とか「汚い」という属性が備わっているわけではないのです。
ちょっと汚い話で申し訳ありませんが、たとえば鼻水をすすったりしますよね?
つまり、自分の鼻水を飲んでいます。時には口の中で味わったりもするでしょう?
どうしてそんなことができるのでしょうか?
だって、他人の鼻水だったら、「汚いよ」と言って、飲むどころか触れることさえ嫌がるはずです。
鼻水の成分に、そんなに違いがあるでしょうか?あるはずありませんよね。
違うとすれば、それは「私の」鼻水なのか、それとも「他の誰かの」鼻水なのか、という違いだけです。
では、自分以外の人の鼻水ならぜったいに口に入れたくないと思うかと言うと、必ずしもそうではありません。
子どもがまだ小さくて鼻をかめない頃、自分の子だからという理由で、口で鼻を吸ってあげるという親は少なからずいます。
つまり、鼻水そのものが「汚い」のではなく、鼻水を「汚い」と思うかどうかの違いなのです。
ホテルの周りを散歩していたとき、偶然に時計台を見つけました。

名所だからということで、一応、記念写真を撮りました。
ビルの間に、ポツッと建っている時計台。見た目も豪華ではなく、どうということのない建物です。
それなのに、どうして名所になるほどの価値があるのでしょうか?
建物そのものに価値があるのではなく、人々がそれを価値あるものと考えるから、価値が付与されているのです。
つまり、価値というのは、その対象にあるのではなく、それを見る人の頭の中にあるのです。
そういうように考えてみると、世の中がまた違うように感じられませんか?
私たちは、この相対的な世界で、あれは「高い」とか「低い」などと評価します。
「美しい」「汚い」「かっこいい」「ぶさいく」「善い」「悪い」・・・
そういった評価が、実はその対象に付随しているのではなく、私たちの頭の中にあるということになるからです。
このことが理解できると、他人の価値観を無意識に受け入れて従わされていたことに気づくでしょう。
そして、本当は自分で選ぶことができるし、自分が好きなように決められるのだとわかるでしょう。
それは、どんな状態ですか?
自由です。
私たちは本来、自由なのです。他の誰かの価値観に縛られるものではありません。
自分で、「それをどう考えるか?」ということを選べるのです。自由に選べるのです。
そんなことを、今回の札幌旅行でも感じました。